第30話 口頭弁論

 口頭弁論は、日本国憲法第3章で保証する国民の権利が問題になる事件では、双方に対等の機会を与えるという見地から、日本国憲法第82条により、裁判の対審及び判決は、公開法廷を経てこれを行ふ。(以下公開法廷によらないもの……略)と定められています。


 しかし、日本の法廷では、双方に対等の機会を与えるということは面と向き合って罵り合う機会を与えるということではありません。

 この場では原告も被告も、ただ質問されたことだけに答えることになっています。

 このやりかたは、「折角作った物語をド素人がうっかり喋って壊すんじゃねえ」という、代理人の都合によるものと、兎に角、日々斉整と仕事(件数)を片付けたいという判事の都合が合致した結果に他なりません。



 裁判官が席に着くと、書記が日時、法廷名、事件番号を奏上し、裁判官(一人)に、間違いないことを報告します。

 

 アメリカ映画ではここでドンッとガベルを叩き着席するところですが、日本の法廷では「開廷します」と、ひと言だけで着席します。


 ※ ガベル:って聞き慣れないと思いますが、アメリカの裁判映画で裁判長がよく机を叩く木槌のことですね。日本の法廷では使いませんからね。


 使わない理由? は、極東裁判の時にGHQのジャッジが、叩きすぎて机を壊したからだ。とか、インドのパール判事に「そんなに興奮する人間は判事として不適格だ」と言われて以来、日本国内では使われなくなった。とか、色々面白い説がありますが、確実なことは判りません。

 ただ、使い始めたことには記録がありますが、使わないことの記録は残されない。という、一つの真理を提唱する見本のようには伝承されています。


 それはさておき、法廷です。


 まず始めにAが証言台に座ります。

 初めてだと、ここが一番ドキドキするところですね。

 人定質問に続いて、Aが宣誓書を読み上げます。

 裁判官が偽証は罪に問われることがある。と念を押して、ここからがスタートです。


 最初はW先生が打ち合わせ通りに、事故発生当時の状況を訊ねます。

 Aは落ち着いて、以外に大きな声でテキバキと答えました。

 こういう受け答えを聞いていると、傍聴人は安心します。裁判官に与える印象も良いはずです。


「それで、私にぶつかってきた赤い車が私の前に停まったので、どうしよう。と思ったらその車が動き出したので、当て逃げだ!と思いそのときナンバーを覚えたのです」

「そしたら当て逃げではなかったのですね」

「当て逃げではありませんでした。60メートルぐらい前の、消防署の前の空き地に止まったので、私も車を動かして赤い車の後、3メートルぐらいのところに付けました」

 W先生が僕に、「他に何か?」と聞くので、僕は「赤い車が前に駐まり、白い車が後だったことをもう一度みんなに印象づけて下さい」と言いました。W先生の質問はこれで終わりです。裁判官からも、何の質問もなく、後はJ先生の質問が終わればそれで終わりです。Aは少し気が緩んでしまっていたようです。


 J先生が「消防署の前の辺りに3~4台の車が止まっていましたね」といきなり言います

 Aは、何のことか分からず、「えっ」と聞き返します。

 Aはこのとき、Jが言っているのはBの後に車を停めた時の事をいっているのかなと思ったそうです。だから『それがなんの関係がある?』と考えたのだと。

 

 J先生はすかさず「「あっスミマセンね。聞こえなかったようです」と言いながらAの横に立ち、今度は、

「耳もですね、遠くなるのはしかたがないことですね」

 と、独り言のように言い、耳が遠く加齢が始まっていると印象づけます。(こんな事、刑事事件では絶対ありませんけど、Jはかなり民事に長けていて、こういうやり方に慣れた弁護士なのだということが分かります)


「消防署の手前右側車線に車が止まっていてですね、何台止まっていたかは分からなかったにしても、少なくとも2台以上の車が方向指示器を出していたのに気がつきませんでしたか?」

「気がつきませんでした」

 即答します。

 それはそうです。

 Aの言う事故現場は60メートルも離れているんだし、事故直後に他所の車が混んでるとか方向指示器がどうとか知ったことかって所でしょう。


 まさか自分が事故の状況説明をした後で、Bの事故態様で話しを進められているなんて思いもしないAは戸惑うばかりです。

 そこでJは、損保会社の資料「加齢による視野角の狭窄と視力の衰え」というデーターで、40代になればそれは仕方が無いのだとAを慰めて、加齢を認めさせようとしました。

「だいたい女性がそんなことをあんな場所で認めると思ってるのが大間違いなのだ」

 と、Aは言います。当然この時は無視しました。


 次の質問は、「Aさんは実際には何キロで走ってましたか?」というもの。


 これもAは聞きなおします。

「だって、何度も私が50キロで走っていることは言ってるし、書いてるじゃない。だからそのことかどうかを確認したかったの」

 Aの反応を予測していたJ先生は瞬時に言葉を返します。


「ああ。そうでした。すみません。次からはもっと大きな声で話すように気をつけます」

「そうじゃなくて」という言葉を言わせません。


「道路には車の流れというものがありますね。だいたい40キロの所は50キロぐらい。50キロの所は60キロぐらいで走っているのが普通です。あの道路は50キロの標識がありましたが、そこを50キロで走る車はいないでしょう」


 これは、視力が衰えている上に、高速で走っていたために、Bの挙動や方向指示器を見落とした。という理屈を構成するためです。

「一つは前に軽トラが走っていたこともありますが……」

 Aの声が変わってきました。

「私が普段、どれだけ法令を守っているか、知りたいんなら私じゃなくて近所の人に聞いたらどうですか」


 ヤバイ。Aが切れてしまった。

 

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