スグリノレクス⑭
******
朝。
窓からグレプ畑を見回して冷えた空気を思い切り吸い込んだ。
土と木の香りに混ざるのは――パンの焼ける匂いかな。
うん。いい匂いだ――あ、腹が減ったかも。
きっと爺ちゃんの考えがわかってどこか安心したからだけど……我ながら現金な腹である。
俺は腹に手を当ててちょっと笑った。
「……あ、あの、キール……」
そこで個室の扉が開き、そろそろと紅色の帽子の鍔が覗く。
「ん、おはよう
「え、ええ。問題ないわ。あの、昨日のことだけど……」
「ああ。
「……⁉」
その瞬間、大きく見開かれた紅色の目がみるみる羞恥に染まり、頬が紅潮した。
このくらいの意地悪なら許されるよな? 俺だって本当にびっくりしたし。
「そ、それはっ……このドレスのせいよ⁉ よ、鎧なの! 特注だからわかりにくいのよ! だって……ほら私、戦うでしょう? だからよ! あと淑女に重いなんて……うぅ……本当に結構言うわねあなた……」
あまりの慌てっぷりに俺は思わず吹き出して笑ってしまった。
「あっはは! わかってるって
俺は
「あ……」
「――もう隠すこともない。……なあカシス。君は誰なのか聞かせてくれるか? 俺、王族には
帽子の中からこぼれ落ちる金色の髪は朝の光のなかでより綺麗に見える。
俺を見上げた紅色の目は困惑に彩られ、それから諦めたように伏せられた。
そして優雅にドレスの裾を摘まむと――彼女は膝を折って悠々とお辞儀をしてみせる。
「わたくしはリキウル王国第一王女、リルカシスと申しますわ。……ごめんなさいキール……やっぱり昨日この髪を見たのね? それで気が付いたのかしら」
「うん。……その、正直ぴんとはきてないんだけどさ。いまさら敬語にするのも悩むくらいだ。まさか不敬罪とか言われないよな?」
俺が笑うと彼女は二度瞬きしてから窺うように俺を見上げる。
「……やっぱりあなたいい人ね、キール。むしろ昨日と同じにしてもらえると嬉しいのだけど……どう?」
「――
戯けてみせる俺に
俺はそこで気になったことを口にする。
「でもどうしてこんなことしたんだ? 俺が爺ちゃんの孫とはいえ知らない奴とふたりでなんて危ないだろうに。衛兵のマルティさんもノッティさんも
「ああ……私は最初からあなたのこと知っていたもの。当然、お母様も衛兵たちもよ? だからお母様も私があなたと行くことを許可したの」
「……うん?」
ちょ、ちょっと待って。どういう意味だ?
俺が右手で眉間に寄った皺をぐりぐりすると
「説明するわ。……だから朝食にしない? すごくいい匂いがするんだもの!」
******
朝食は部屋に運んでもらえた。
焼き立てのパンに野菜、果物、それから鶏肉と卵。
トマティオのスープもあってテーブルは華やかに彩られる。
食べながら話を聞くとリルカシス――王女様はさらさらととんでもないことを言った。
――
そもそも爺ちゃん……〈宮廷カクトリエル〉カルヴァドスは『建国祭』への参加を断り続けていた堅物カクトリエルだったらしい。
それが何故、突然参加して十年もその座を守り続けていたかというと――孫、つまり俺のためだという。
〈宮廷カクトリエル〉に選ばれたときも……爺ちゃんはきっぱり『孫のためにならんと思ったら辞める』と言ったそうな。
酒場でもそれなりに稼ぎはあったけど、俺の父親――つまり爺ちゃんの息子がふらーっといなくなったとき、爺ちゃんは『夜通し店を開けて朝に寝るような生活を孫に強いるわけにはいかない』と考えたんだとか。
……爺ちゃん、そんなこと気にしてくれてたんだな……。
なんとなく暖かい気持ちになったけど……問題はここからだ。
王宮内では『何度頭を下げても出てこなかったのに突然参加するなんて、理由になったのはどんな孫だ?』と騒然としたんだってさ。
その結果、俺の情報は王宮内を駆け巡り
いや、それ個人情報だろ……。
「羨ましいとも思ったのよキール。あなたは〈宮廷カクトリエル〉カルヴァドスにそれだけ愛されている。……私、気になって何度かあなたを見にいったこともあるわ」
「……えぇ?」
「だから『建国祭』の夕食会で怒って泣いているのがキールだってすぐにわかった。胸が痛かったの……なんとかしたいって思ったのよ。衛兵たちも皆同じ気持ちだったのね――脱獄もあんなにうまくいったでしょう?」
「……あれはうまくいったって言うのかな……」
「もう。細かいことはいいの! ……ただ誤算だったのはスグリノ村で魔物が出たことね。さすがに戦ったなんて言ったら次は護衛を付けられちゃうかも」
……いや、仮にも王女様だろうに。護衛がいるのはいいことだと思うけど……。
「
「え? 当然よ? 私は各地の酒蔵の状況を調べる視察官だもの」
「うん? それ……設定じゃないのか?」
「違うわ。設定なのは私が貴族ってことと、あなたが従者ってことだけよ。カシスだって愛称だもの、嘘でもなんでもないから呼んでくれてもかまわないわ。……私は王宮を代表して各地の酒蔵や原料の生育状況を調査する仕事を任されたところなの――まあ、
「…………」
俺はそれを聞いて思わず言葉を失った。
えぇ……王族自らそんなことして大丈夫なのか?
そういえば『建国祭』でも女王様が一杯目のカクテルを吞むんだったな……。
すると顔を顰めていた俺をしげしげと眺め、
「ねぇキール。なんだか……あなた少し元気が出た? そうだと嬉しいんだけれど……」
「うん? ああ、そうかも。……そっか、
「ええっ⁉ ど、どうして起こしてくれないのよ!」
「
いやまぁ、それなりに寝顔は見たけど……黙っておこう。
「別に首なんていくらでも繋げてあげるわ。それで? なにを話したの?」
……うん。物騒なことを言わないでほしい。
俺はため息交じりに続けた。
「――爺ちゃんのカクテルがどんなものかわかった。悪いけど
すると
俺はスープを口に含んで顔を上げた。
見れば、こぼれそうなくらい大きく見開かれた紅色の目が俺を真っ直ぐに見詰めている。
「……え、嘘。わかったの? カルヴァドスのカクテルが?」
「うん。でもまだ教えられない」
「えぇっ⁉ ど、どうして?」
俺は眉尻を下げて悲痛な顔をした彼女に笑ってみせた。
「まだ完成じゃないからな」
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