スグリノレクス⑰

「気にするなキール。カルヴァドスならやりかねん」


 女王様はおかしそうにクスリと笑うと、ゆったりと立ち上がった。


 濃い蒼のドレスが足下に流れ、夜闇に瞬く星々のような煌めきを纏う。


「わたくしはこのカクテルがカルヴァドスの『幻の一杯』であると認める。異論がある者はこの場で申せ。なにもなければセルドラについての調査を行い、結果によっては然るべき対処をする。――まずは」


 そのとき。バァンと扉が開かれて――黒髪と銀髪の衛兵が会場に飛び込んできた。


「女王様、火急の用にて失礼いたします!」


 ぎゅ、と心臓が絞られるような……痛み。


 俺は嫌な汗が手のひらにじわりと滲むのを感じた。


 どうしてここにふたりがいるんだ? だって――爺ちゃんの傍に付いているはずだよ、な?


「ま、マルティさん、ノッティさん……ど、どうして……ここに?」


 絞り出さずにはいられない。


 彼らは目元を赤くして……俺にちらと目を向ける。


「そこでよい。申せ」


 女王様の声は心なしか低くなり、あるじが細いグラスを握る指先に力を込めた。


 一歩前に歩み出たマルティさんが頭を垂れ――はっきりした声で告げる。




「先程――〈宮廷カクトリエル〉カルヴァドスが――意識を取り戻しました……!」




「…………ッ」


 息を……呑んだ。


 瞬間、わっと歓声が上がり会場に歓喜が満ちていく。


 視界が急激にぼやけ、俺は左手で目元を覆ってその場に膝を突いた。


 ――ああ、爺ちゃん……。頑張ってくれたんだな……。


「……は…………う、く……」


 涙がこぼれて止まらず、嗚咽が込み上げる。


 噛み締めた唇が震え、体中が熱を帯びる。


「キール……!」


 そのときあるじの声が耳に触れ……柔らかく温かな抱擁が俺を包んだ。


「きっとあなたが頑張ったからよ――よかった、よかったわね、キール」


あるじ…………う、うん……う……く」


 うずくまって嗚咽を漏らす俺の肩を抱いたまま、彼女は白いハンカチを差し出す。


 俺はそれを受け取って涙や鼻水や……とにかくあらゆる気持ちを拭い、何度も深呼吸を試みた。


「……ねぇ聞こえる? ご覧なさいキール、皆が喜んでいるわ。……よく頑張ったわね……」


 歓声に混ざるすすり泣きは俺の感情を慮ってくれた人々の思いに聞こえ、胸がいっぱいになる。


 俺が必死で頷いてめちゃくちゃに拭った顔を上げると……反対にあるじは顔を伏せた。


「……あ……あるじ……?」


「……王女はね、国民に涙を見せては……いけないの。凛とした佇まいが国民に幸せをもたらすのよ、だから涙はいらない。……だから……ちょっとだけ待ってくれる?」


 俺は泣きながら笑った。


「王女様の嬉し涙は、国民に幸せをもたらすんじゃないのかな……あるじ


「――あなたいい人ね、キール。……でももう平気よ。あなたにハンカチも渡しちゃったし、泣いたらお化粧が崩れるもの」


 戯けてみせた彼女は顔を上げて濡れた瞳に俺を映し……続けて微笑んだ。


「それに、ほら? ポケットの中身も役に立つって証明できたわ?」


「……うん? ……ちょっと待って。まさかこれドレスの裾から出したやつ……なのか?」


 俺が鼻を啜りながらハンカチに視線を落として応えると……彼女は俺から腕を放して立ち上がった。


 いつのまに出したんだよ。というか、なんか……無性に恥ずかしくなるんだけど。


 するとあるじは微笑んで応える。


「さあ、どうかしらね? ……行きましょうキール。カルヴァドスが目覚めてくれたのなら許可を貰わないと」


「……許可?」


 俺が聞き返すと、彼女は大きく頷いて白い手を差し出した。


「ええ。お母様にも許可は頂戴しているから正式にあなたを従者に迎えたいの。……そのためにまずは頑固なお爺さまを説得しなきゃ。……あなた最初に言ったわよね? 『君に仕えることになるならそれでもいいかなって思うくらいには信用してるつもりだ』って。……設定じゃなく、私と一緒に各地のお酒を勉強してもらうわよキール」


「…………うん?」


 彼女は問答無用で俺の右手首を掴むと引っ張った。


 ふと……地下牢からの脱獄を思い出す。


 あのときも彼女は強引で……話は勝手に進んでいったんだよな。


 でも今回は違う。唐突ではあるけど――『彼女の従者になること』がどういう意味か、俺にはわかったから。


 それは万が一爺ちゃんがこのまま目覚めなかった場合、ひとりになってしまう俺のため。


 ……あるじ――カシスは俺の居場所を確保してくれていたんだよな……きっと。


 この数日でそれがわかる程度には、なんとなくだけど彼女のことを理解した気がする。


 ――そんなの、俺に拒否権なんてないじゃないか。


 いつのまにか引っ込んでいた涙に、俺は立ち上がって笑ってしまった。


「――仰せのままに、あるじ。……ありがとう、俺のためにいろいろ考えていてくれたんだな」


 彼女はそれを聞くと口角を引き上げ、悪戯っぽく笑って頷いた。


「当然よ。私は設定とはいえ一度でもあるじなんて呼んでくれた従者を大切にする主義なんだから。――物語みたいで素敵だと思わない?」



 そのとき……どこか高揚した声で女王様が告げた。



「馬車を持て! すぐに向かう!」


******


「爺ちゃん!」


 病室に飛び込んだ俺に横になったままの爺ちゃんが視線をちらと動かした。


 頑固そうな太い眉の下、翠色の瞳には光が見える。


 俺とは違う茶色がかった灰色の髪……その大半が白髪と真っ白な包帯で覆い隠されているのは変わらなかったけど、ここ数日で少し痩せたように感じる体。


 だけど――間違いなく俺の爺ちゃん、〈宮廷カクトリエル〉カルヴァドスの姿に……俺は体の底から歓喜に震えた。


「……キール」


 俺を呼ぶ声が少ししゃがれているのは、しばらく眠っていたからかもしれない。


「ああ、お孫さ――……」


 爺ちゃんの隣に腰掛けていた医者が顔を上げ――絶句したのはそのときだった。


「……⁉ じょッ……女王様⁉」


 そう。


 俺の後ろには深い蒼色のドレスを纏う神々しいまでの女性――俺を一緒に馬車に乗せてここまで連れてきてくれた女王様がいたのである。


「挨拶はよい。カルヴァドスの容態は」


 きっぱり告げた女王様の隣にはカシス、廊下には警護のための衛兵たちが控えている。


 マルティさんとノッティさんの姿も扉の向こうに見え隠れしていた。


 病院もいきなりのことでさぞ混乱しているだろうな……。


 思わず同情したけど――もしかしたら反対に嬉しかったりするんだろうか。


 ふと考えたとき……医者はしどろもどろに言った。


「は、はい! まだ意識障害が見られます……無理はさせられませんので長くは話せませんが――峠は越えました」


「!」


 ……峠は……越えた……。


 その言葉に俺はほーっと安堵の吐息をこぼし肩の力を抜く。


 そっか。……そっか――よかった。


 俺はゆっくり爺ちゃんに歩み寄ってそっと声を掛ける。


「爺ちゃん……本当に心配したよ……」


「……むう――なにがあったキール……? それにアルカシス。ここでなにをしている? 『建国祭』はどうした……」


 ところが、ぎゅっと眉をひそめる爺ちゃんはそう言って唸った。


 意識障害のせいでなにがあったのか思い出せないのか? ――それに、アルカシスって……?


「案ずるなカルヴァドス。滞りなく進んでいる」


 疑問に思った瞬間、さらっと応えたのはなんと女王様だった。


 え、ちょっ……アルカシスって女王様のことか⁉


 いや、俺も王女様をカシスなんて呼んだりしているわけだけど……それとこれとは違うだろうに!


 ぎょっとした俺のことなんて気にも留めず、爺ちゃんは掠れた唇で続けた。


「……そうか……。キール、酒場の準備はどうなっている……?」


「えっ、あ……うん。大丈夫だ爺ちゃん。いつもどおり準備してある。いつでも――爺ちゃん、いつでも開けられるよ……」


 あ、また泣きそうだ。


 俺が頬を引き攣らせながら笑うと、爺ちゃんは小さく頷いて瞼を下ろす。


「爺ちゃん……?」


 思わず口にして身を乗り出すと、医者が「心配ありません。眠っただけです」と優しく囁いてくれる。


「……移動しましょう、詳細のご説明をします」


 続けてそう言った医者に俺は何度か頷いて、強張った体の力を抜こうと努めながら「はい」と返事をした。



 そうして移動した大きな部屋でテーブルを囲んだ俺たち。


 正確には俺、カシス、女王様、そして何人かの衛兵たちだ。


 窓際には俺の顔ほどもある濃緑の丸い葉を幾重にも広げた観葉植物が置かれ、室内は窓からの光で明るい。


 医者が言うには――長い時間眠っていた爺ちゃんは回復にしばらく掛かるってことだった。


 運動機能障害が出るかもしれないし、意識障害が残るかもしれないとも説明があって……俺は目頭をぎゅっと摘まむ。


 ……爺ちゃんならきっと大丈夫……。


 そう思うけどどこか不安な俺に隣に座っていたあるじは静かに告げた。


「襲われた夜のことはしばらく思い出せないかもしれないわ――でもセルドラは必ず調べさせるから安心して、キール」


「……うん。俺は大丈夫。ありがとうあるじ


 俺がなんとか笑みを浮かべると、彼女はどこか困った顔をした。


 するとその向こう側で女王様がふ、と息を吐く。


「カルヴァドスの孫、キール」


「は、はい……」


 突然話し掛けられて背筋を伸ばす俺にくれない色の目が向けられ――女王様はきっぱりと言い切った。


「カルヴァドスはわたくしが責任を持って預かろう。お前はリルカシスのもとでともにカクテルを学ぶとよい」


「……えっ?」


「今回のことでお前は大きな失敗を犯したが――【スグリノレクス】は見事であった。あの場でリルカシスを指名したその姿にわたくしはカルヴァドスの面影をはっきりと見たぞ――キール。ならばやることはひとつ。お前は宝酒大国ほうしゅたいこくの名を背負うカクトリエルを目指しなさい」


「…………!」


 目をみはる俺に――女王様は初めて見せる慈愛に満ちた微笑みをもって言った。


「それはカルヴァドスを助けることでもあろう?」



 俺は思わず頭を垂れ……熱くなる目の奥から溢れそうなものを堪えるために固く瞼を閉じる。



「――はい。必ず。……女王様――『建国祭』の夕食会では……申し訳ございませんでした」


 この国の名を、この国の酒を、爺ちゃんを守ろうとしてくれた女王様の気持ちをおとしめる行為だった。


 それは俺の失敗なのに……女王様もカシスも挽回の機会を与えてくれた。


 ――いまもだ。


 女王様もカシスも〈宮廷カクトリエル〉カルヴァドス――爺ちゃんのために動いてくれている。


 その気持ちは俺の忠誠心と愛国心を熱して気持ちを昂ぶらせた。


 ……しかし。


 女王様はクスクスと笑い、顔を上げた俺に向けて双眸を細めたんだ。


「……素直なことは尊きことだキール。それにお前、リルカシスを『あるじ』と呼ぶからには最初から仕えるつもりだったのだろう? ふふっ、戯れに付き合ってくれるよい従者を得たものよリルカシス? まるでどこぞの執事・・・・・・のようなこと」


「えぇっ⁉ お、お母様ッ……まさか、知って……⁉ こ、これは……そのっ」


 考えてみたら女王様の前でその娘――王女様を『あるじ』なんて呼ぶのはまずかったかと焦ったけど……なるほど。この親にしてこの子ありだな。


 不敬罪にならないよう胸のなかで呟き……俺は慌てふためくあるじに笑って――この先に思いを馳せるのだった。


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