フィーリア・レーギス①

 ザザッ……


 葉擦れの音とともに黒い影が視界の端を過ぎる。


 男は息を切らせヒューヒューと甲高い呼吸音を立てながら必死に逃げていた。


 こんなところに魔物が出るなんて聞いたことがない。


 それなのに、どうして。


 瞬間、足が縺れ……土の上を無様に転がった体が段になった畑の下へと放り出された。


「――ッ!」


 音にならない悲鳴は空気を裂き――男はグレプの瘦せ細った枝を尽く折りながら落下したあとで地面に叩きつけられる。


「ガハッ」


 息が詰まり四肢に痺れが奔ったとき……男のそばに段々畑の上から黒い影がドスンと降り立った。


『グルル、ルル』


 生臭い吐息、撒き散らされる濁った涎。薄く開いた口の中にずらりと並んだ黄色い牙。


 黒い毛並みのあいだには爛々と光る獰猛な赤眼。

 

 太い四肢の先には鋭い鉤爪があり、手の甲のあたりは硬そうな鱗にびっしりと覆われている。


 巨大な魔物を前に――男は死を覚悟した。


******


「セルドラがいない?」


 聞き返した俺に紅色の鍔の広い帽子をテーブルに置いたあるじが金色の髪を払いながらゆっくりと頷く。


「ええ。どうやら『建国祭』のあとから雲隠れしているみたいだわ」


 あるじの後ろには衛兵のマルティさんとノッティさんが控えていて……俺は四人分の席を用意して座った。


 ――ここは俺の家、その酒場だ。


 今日は酒場の掃除をして悪くなりそうな果物をジャムにでもしてしまおうと考えていた矢先、あるじが訪ねてきたのである。 


 爺ちゃんが起きたのは昨日の話で、正式にいえばまだあるじの従者ではないんだけど……まぁどっちでも変わらないな。


「――確かあいつ、どこか地方のお貴族様なんだよな? そっちに逃げたってことはないの?」


 このあたりでは見かけない蒼い髪と目を持つ優男――セルドラを思い出しながら聞くと、銀色の髪と灰色の目をしたノッティさんがテーブルの上で手を組んだ。


 彼は今日も暗い紺色で襟と袖の縁に赤い線の入った制服だ。


「考えられる。衛兵のなかでも斥候術を得意とするものがそちらの調査に出たところだ。調査に数週間はかかる見込みだがなにか掴めるだろう」


「実のところね、キール君。カルヴァドスさんを襲う理由はどんな『カクトリエル』にもあるって考えられるし……セルドラがやったっていう確証がないのに犯人のような扱いで調査することに反対意見もあったんだ。確かにそこは慎重になるべきだし、不当な扱いにならないよう注意は払っている。だけど『建国祭』の夕食会で〈宮廷カクトリエル〉不在のために前代未聞の『選出延期』が言い渡され――結果、彼はいなくなった。逃げたとみている兵も多いのが事実だよ」


 柔らかい声でそう続けたのは黒髪黒目の衛兵、マルティさんである。


 確かにほかの『カクトリエル』だって爺ちゃんのレシピは欲しいだろうな。

 

 だから犯人はセルドラじゃないかもしれない……その意見があるのもわかる。


 だけど俺は最初にあのカクテルを見たときからあいつだと思っているし、爺ちゃんのことやレシピ手帳のこともあるから思い出すだけで胸のなかがざわざわして気分が悪い。


 なにが有力貴族だよ。……だろ?


 ――あの手帳は返してもらわないとならない。絶対に。


 俺が静かに意気込んだところで……あるじが淡々と言ったのはそのときだ。


「やましいことがないのなら堂々としていればいいってだけよ。それができないのなら疑われても仕方がないわね。……ただし不当な扱いにはならないよう注意するのは絶対。そこはわかるわねキール? ――とにかく、まだ気は抜けないってこと。〈宮廷カクトリエル〉カルヴァドスの安全確保は急務だわ。……だからキール、王宮に来ない?」


「……うん?」


 王宮? なんの話だ?


 あるじの突然の言葉に思わず目を瞬くと、彼女はコホンとわざとらしい咳払いをして……紅色の大きな目でじっと俺を見詰めた。


「カルヴァドスの許可はまだ出ていないけど……緊急事態だもの。あなたを見習い従者として近くに置くことにしたわ。それとカルヴァドスも王宮内の〈宮廷医術士〉の元で治療しようってことになったの」


「王宮内? 見習い従者?」


「そう」


 いや、そうって……どう?


 俺は目を閉じて少し考えたあとで――ゆっくり口にした。


「爺ちゃんは王宮内の病室に移動ってこと? 俺も王宮内で生活する?」


「ええ、そう」


 さらりと言ってのけたあるじだけど……俺は唸った。


「えっと……爺ちゃんを移動してもらえるのは安心だけど……俺は家も酒場もあるしなぁ」


「ここのお酒も王宮の酒蔵に移動しましょう。すっきり片付いたらまた戻せばいいわ」


「うわあ、さらっととんでもないこと言うなぁあるじ……」


 それならまあ、困ることは掃除くらいだけどさ……。


「僕たち衛兵が毎日見回っておくから、この家は心配ないよキール君。なんなら掃除くらいは任せてよ」


 マルティさんがくすくすと笑うので……俺は苦笑した。


「これ、俺に選択肢がない気がするんですけど……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る