スグリノレクス②
リキウル王国はその通称のとおり宝ともなる数多の酒を特産品として産み出してきた国だ。
広大な国土には
――俺はそんなリキウル王国の王都に産まれた。
丘の上に荘厳な姿を晒す石造りの王宮が聳え、それを中心として放射線状に麓へと向かう八本の目抜き通りが
目抜き通りの間は大小様々な建物で埋め尽くされ、目抜き通り沿いともなれば多数の店が構えている。
国中の酒が集まる王都の周りは酒の原料となるグレプ畑が広がり、それ以外にも多くの果物や穀物が栽培されていた。
……そんな王都では俺が物心つく前に酷い病が流行り、母さんが他界。
父さんはある程度俺が大きくなると旨い酒を探すと言って旅に出てしまい――俺を育ててくれたのは〈宮廷カクトリエル〉である爺ちゃんただひとり。
正直父さんの思い出は記憶の奥底に霞んでたゆたうだけ。
どういうわけか俺を置いていったことへの腹立たしい気持ちは一切なく……自分で言うのもなんだけど真っ直ぐ育ったと思っている。
爺ちゃんの育て方がうまかったんだろうな。うん、きっとそうだ。
そんなわけでご多分に漏れず俺も酒好きに育ったものの、成人するまで――つまり酒を呑むことを許されるまでは知識のみを与えられ、一滴たりとも呑ませてもらえたことはない。
――品位品格には日々の所作こそが反映される。
これは爺ちゃんの格言で――まあ、つまり決まりは守れってこと。
その格言を胸に恋い焦がれるように日々を重ねて成人を迎えた俺は初めての酒を爺ちゃんに作ってもらったんだけど――これがまた美味いのなんのって。
なにこれ俺のために産まれた酒? なんて思うほどだった。
――決まりを守って呑む酒は人を笑顔にする。……だろ?
俺はその瞬間、本気で〈宮廷カクトリエル〉を目指すと誓ったってわけ。
――で。
その〈宮廷カクトリエル〉は年に一度行われる『建国祭』で選ばれるんだ。
カクトリエルたちから『〈宮廷カクトリエル〉選考試験』とも呼ばれるこの煌びやかな催しは、さまざまな賓客を招き
そしてこの十年〈宮廷カクトリエル〉の座を譲ったことのない頑固な爺ちゃんは、今年もその座を守るためのカクテルを作り上げているはず。
……だけど。
「――っ、……!」
「……、……! ……⁉」
言い争うようなその声を聞いたのは真夜中だ。
真っ暗な部屋でベッドに寝ていた俺は重たい瞼を擦って欠伸を挟み、上半身を起こす。
正直頑固な爺ちゃんはよく誰かと喧嘩をするんだけど……こんな夜中になに考えてるんだよ……。
明日は〈宮廷カクトリエル〉の選出がある『建国祭』だっていうのに元気だな――毛布被って寝ちゃおうかな……。
考えながら両手で頭の上まで毛布を引き上げた俺は、そこでふと思い直した。
待てよ?
この前は覗いて怒られたけど、爺ちゃんは建国祭用のカクテルを練習しているんじゃないかな。
あわよくば味見もできるかも……いや、さすがに女王様が呑む前だし無理かな。
――あー、駄目だ。気にし始めたら眠気なんて吹き飛ぶに決まってる。
俺はとりあえず上着を羽織り、爺ちゃんがいるであろう
酒蔵は俺たちの過ごす家と爺ちゃんが気まぐれで開ける酒場の両方から繋がっている。
場所は王宮からほど近い住宅街の裏路地だ。
俺の家系は代々ここに住んでいるらしいけど――爺ちゃんが〈宮廷カクトリエル〉になる前からずっと酒場を営んでいた家なんだ。
だから爺ちゃんは〈宮廷カクトリエル〉になったいまも暇があると酒場を開け、訪れる客に最高の酒を振る舞うんだよな。
いつ開くともわからないこの酒場は王都じゃちょっとした有名店で、貴族や他国の偉い人がお忍びで来たりもするほどだ。
ただでさえ〈宮廷カクトリエル〉の酒が呑めるなんて滅多にないはずなのに加えて、爺ちゃんはそれを誰でも楽しみやすい価格で提供するから当然といえば当然かもしれない。
……まあそんなわけで見慣れた暗い廊下をキシキシと軋ませ、俺は酒蔵への扉を目指す。
いまはもう静かだけど……扉の下、灯りが漏れているのが見えた。
「爺ちゃん……声が聞こえたんだけど、どうかした?」
俺は蔦を模した鉄の輪が取っ手になった分厚い木製の扉を右手で引いて覗き込む。
ずらりと並んだ棚や保管箱。樽。
鼻に抜ける様々な香りは樽やその中で発酵している酒、カクテル用にと買ってある果物のものだ。
――この
――だけど。
そのテーブルと水場のあいだ――爺ちゃんが……仰向けに倒れていて。
ひゅ、と喉が鳴った。
「じ、いちゃん……? 爺ちゃんッ! どうしたんだよ⁉ 爺ちゃんッ!」
俺は全身が急速に冷えて震えるのを感じながらも爺ちゃんに飛び付く。
その肩を何度か叩き、大きな体を起こそうと腕に力を入れて……気付いたんだ。
その後頭部からぬらぬらした赤い液体が……こぼれていることに。
「――ッ!」
悲鳴にならない悲鳴が喉の奥からほとばしる。
助け――助けを呼ばないと――!
俺は蹌踉めきながら立ち上がり酒場側へと走った。
そのまま階段を駆け上がり、木製の丸テーブルとそこに載せられた椅子の群れを抜けて裏路地への扉を開け放つ。
「だ、誰かッ! 誰か助けてください――爺ちゃんが――爺ちゃんがッ!」
声が掠れ、震え、どうしていいかわからない。
それでも真夜中の静まり返る裏路地で叫んで、叫んで、とにかく叫び続けたんだ。
それを聞いた近所の人たちがランプを手に集まってきて、俺がなんとか爺ちゃんのことを伝えると手分けして衛兵と医者を呼びに走ってくれた。
――そうなったら俺……もうなにもできなくなってさ。
夜中なのに消えない人集りから、ただひそひそと囁き合う声が聞こえる。……でもその音が信じられないほど遠く感じるんだ。
世界にひとり残されたような……心細い気持ちが胸を締め付ける。
――爺ちゃん。なにがあったんだよ……なんでこんなことになってるんだ?
考えるほど恐くなって歯の根が噛み合わず……薄く開いた唇からはカチカチと音がこぼれ続けていた。
そのうちに衛兵がやってきてなにか聞かれたけど、なにを言ったのかも思い出せない。
――いまの俺の状態じゃ話は聞けないと判断したんだと思う。
衛兵は『医者が診てくれているから君はこっちに』と俺をすぐ近くの詰め所へ連れ帰って毛布にくるみ……暖炉に火を入れる。
『動きがあればすぐに教えるから少し休んだほうがいいよ』
思い返してもどんな姿かまったく思い出せないけど――おそらく男性の衛兵はそう言って再び出ていった。
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