スグリノレクス③

******


 日が昇る。


 石の建物の隙間を縫ってゆっくりと光が入り込み……町が目覚めていく。


 それは『建国祭』の始まり。


 同時に『〈宮廷カクトリエル〉選考試験』の始まりだ。


 俺はほとんど眠れないまま、病院に運ばれたけど目覚めない爺ちゃんに付き添い、ベッドの横に置いた椅子に浅く腰掛けていた。


 白い布団を掛けられて眠る爺ちゃんの頭は包帯で巻かれていて痛々しい。


 医者が言うには強く頭を打っているから目覚めないかもしれないって……。


 ――なんだよそれ。このままだと爺ちゃんは『〈宮廷カクトリエル〉選考試験』にも参加できない。そんな理不尽なことあるか?


 だってさ。爺ちゃんは十年も〈宮廷カクトリエル〉の座を守ってきた栄誉あるカクトリエルなんだ。


 ずっと王族に仕えてきたすごい人なんだ、自慢の爺ちゃんなんだよ――それなのに。


 俺は涙がこぼれるのを堪えることができず、何度も何度も目元を腕で擦り、鼻を啜る。


 ……そのとき病室を訪ねてきたのは衛兵だった。


 俺は『なにがあったのか聞きたい』という衛兵に同行して爺ちゃんが倒れていた家の酒蔵へと向かうことに決め、涙を拭ってふらりと立ち上がる。


 ――このまま爺ちゃんのためになにもできないなんて嫌だから。


 爺ちゃんをこんな目に合わせた奴を見つけないと……。


 そう思ったんだ。



 ……朝特有の爽やで清純な空気はひんやりと冷たく、薄着のままだった俺は両手で茶色い上着をかき寄せる。



 冷たい風は涙の痕を撫で、ぼんやり靄が掛かっていた意識が透き通っていくのがわかった。


「……夜中、なにがあったか話せるかい?」


 家の前に到着すると同時、ゆっくりと言葉を選ぶように聞いてきた衛兵は黒髪黒眼の優しい顔立ちをした男性。


 暗い紺色で襟や袖の縁に赤い線が入った制服に身を包み、腰に剣を挿している。


 ……俺は数回の瞬きを挟んでその顔を見詰め、ああと頷いた。


「衛兵さん……爺ちゃんの店に何度か……来てくれていました、ね」


「! よかった、思い出してくれたかな。――僕はマルティ。カルヴァドスさんにはお世話になっているんだ。……キール君……だよね」


 カルヴァドスは爺ちゃんの名前。そしてキールは俺の名前だ。


 マルティさんは俺のことまで覚えていてくれたんだな。


 それなのに俺ときたら……取り乱して酷いもんだっただろう。


 俺は深く息を吸って口を開いた。


「はい。キールです。……すみません、みっともないところをお見せしちゃいましたね。――どうぞ」


 気が動転して鍵すら掛けていなかった酒場にはマルティさんとは別の衛兵が見張りに立っていてくれたらしい。


 俺は感謝を述べ頭を下げてから横を通り、その奥――地下の酒蔵へと続く階段を下りる。


 開け放たれた扉の先にはまだ乾ききらない血が残り、テーブルの上には様々な酒が並べられていて、それ以外には筆記用具と使われたあとの空のグラスがふたつ、そして細長いカクテル用のグラスが置かれていた。


「……爺ちゃんが誰かと言い争うような声が聞こえて起きたんです」


 俺が言葉を発すると、付いてきていたマルティさんが慌てたように手帳とペンを取り出す。


 あのとき俺は倒れた爺ちゃんを見て気が動転して……とにかく助けを呼ばなくちゃって思ったんだよな。


「そうだ……マルティさん。俺、酒場側から外に出て助けを呼んだんです。でも扉に鍵が掛かっていませんでした――たしかに誰かいたんですよ。このグラスは爺ちゃんが人と酒を呑むのに使うやつです」


「――それは有用な証言だ。ありがとうキール君。……それならこっちの細長いグラスは?」


「こっちのカクテル用のグラスは違います……これは」


 触らないほうがいいのかもしれない。


 俺は出しかけた手を引っ込め鼻を近付けて匂いを嗅ぎ……少し考えた。


 甘い香り――たわわに実り垂れ下がるさまが鐘に似ているというベルン種に似ている気がするけどなにかわからない。


 もう少し甘いような……それでいてもっと大人の好む落ち着いた香りっていうのかな。


 ベルンには酸味や甘み、色、大きさが違う様々な種類があるんだけど……俺は少し前に爺ちゃんが作っていた試作カクテルを思い出す。


 作っているのを覗いて怒られたやつだ。


「……建国祭のためのカクテルを作っていたんだと思います」


「建国祭用の?」


 マルティさんが手帳に文字を書き込みながら聞いてくる。


 俺は頷いてテーブルに置いてある酒を順番に見た。


 どれも白グレプ酒みたいだけど……じゃあこの香りはなんだ?


「……はい。この前、建国祭に出すカクテルがどんなものか気になって覗いたらもの凄く怒られたんです。爺ちゃん、レシピだって発表までは誰にも見せたりしないから。赤……というにはもう少し落ち着いたくれないで……光が煌めいていたような…………あれ?」


 そこで俺はふと気付いて『あるはずのもの』を探す。


 ――だけど。


「ない……」


 マルティさんが呟いた俺に眉をひそめた。


 テーブルの下、酒の棚の上――。


 爺ちゃんはなにも持っていなかった。それは病院で確認しているから――ここにないはずがないんだ。


 俺はひやりと冷たい石のテーブルに手を置いて呻いた。


「ない……ないんです! 爺ちゃんが肌身離さず持ち歩いてるレシピ手帳……!」


「なんだって?」


 マルティさんがギョッとしたように肩を跳ねさせて目を瞠るけど……当然だ。


 ――爺ちゃんは〈宮廷カクトリエル〉。


 爺ちゃんが生み出すカクテルは王族や貴族、他国の偉い人たちからも高評価を受けている。


 爺ちゃんのレシピなんていったらカクトリエルたちはこぞって欲しがるだろう。


 一度発表されればレシピはカクトリエルたちに共有されるんだけど、まだ発表したことのないカクテルだって記載されている。


 ――なによりいまは建国祭用のレシピが載っているはずなんだ。


 誰かが爺ちゃんを襲ってレシピ手帳を奪った……ってことだよな。


 俺はそう確信し、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締めた。


「……マルティさん……建国祭で提供されるカクテル、俺も見ることはできませんか――?」


 俺が口にすると手帳になにかを書き込んでいるマルティさんの手が止まる。


 彼は唇を噛み、黒い髪をがしがしと掻いてから唸るように囁いた。


「すぐに王宮に打診するよ。……キール君、君はどれがカルヴァドスさんのカクテルかわかるんだね?」


「はい――作るのが下手なカクトリエルでもないかぎり、見れば必ず」

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