スグリノレクス⑧

******


 ……そんなわけで俺たちは転移門から一番近くの村『スグリノ』にやってきた。


 村……と言っても一軒一軒の家は驚くほど大きくて……俺は目を瞠る。


「大きいな――」


「ここは酒蔵だらけの村なの。白グレプ酒の産地で『転移門』が設置されるよりずっと前からお酒を造ってきたのよ。――魔素が豊富で自然豊か、魔物も少なかったから『転移門』設置には好都合だったのね」


「『転移門』の向こう側は町だと思ってたよ」


「勿論町に繋がっている『転移門』もあるわ」


 あるじは笑うと慣れた足取りで進んでいく。


 そういえば彼女は有力貴族って言っていたけど……。


あるじは剣を持っているけど冒険者ではないんだよな?」


「え? ……ああ、そうね。視察に行くには魔物と出会でくわすこともあるから幼い頃から心身を鍛え剣を振ってきたって感じかしら」


「ふーん。酒蔵の酒造状況を確認するのって大変なんだなぁ。スグリノには来たことがあるように見えるけど」


「ええ。何度か来ているわ。……この先に酒場があるんだけど、まだ昼前だし……開いているかしら」



 ――そのとき、そう遠くない場所で耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。



 立て続けに「助けて」と叫ぶのは女性の声だ。


「……なんだ⁉」


「行くわよキール!」


 弾かれたように走り出すあるじ


 紅色のドレスの裾が跳ね上がるのを追い掛け、俺は彼女と一緒にグレプ畑に入った。


 そこでまた悲鳴が聞こえる。


「こっちだあるじ!」


 俺はあるじを追い越し柔らかな土を蹴飛ばして走る。


 すぐにグレプの葉のあいだ――人影と見たこともない黒いなにかがもつれ合うのが見えた。


 ――あれ、まさか魔物か⁉


「キール!」


「うん……うわッ⁉」


 あるじの声に振り返るとドレスの裾の内側から取り出した短剣が放られる。


 いやなんでそんなところから……!


 そんな場合じゃないけどぎょっとした俺に目もくれず、彼女は一直線に人影へと走っていく。


「危険かもしれないからその短剣を持っていて! いざとなったら戦うのよ!」


 言いながら細身の両手剣を抜き放つあるじと受け取った短剣とに視線を泳がせた俺は……とにかくあとを追うことを選んだ。


 た、戦うって……そんなのどうやって……。


 言いかけたけどそれどころじゃない。


 引きずり倒された人影を三体の魔物が交互に襲い、悲鳴が木霊する。


 魔物は俺の膝くらいの体高で、犬……よりも引き締まった体躯を持つ黒い毛並みのなにか。


「退きなさいッ! 好きにはさせないわ!」


 あるじはその黒い影に向けて大声を上げ、向き直る三体を追い払うためにビュンと剣を振り抜く。


 魔物は彼女を先に仕留めようと決めたらしい。


 ジリジリと体を低くして『グルゥ』と喉を鳴らし、まず一体が飛び掛かった。


 瞬間、彼女は左下から右上へと返す刃で魔物を一気に斬り飛ばす。


「ギャンッ」


 犬のような鳴き声。


 斬られた魔物は柔らかな土に弾んだあとで腹這いになり、身を屈めて再び唸った。


「……はぁッ!」


 そのあいだにあるじは次の一体へと右足を踏み出していて、紅色のドレスの裾が翻る。


 彼女に喰らい付こうと飛び上がった黒い体は振り下ろされた刃によって斬り伏せられ、返した剣の追撃で完全に沈黙。


 ……そんな場合じゃないんだけど……正直見惚れてしまったというか。


 え、やばい……あるじ――格好よすぎるんだけど。


 ……とはいえずっと眺めているわけにはいかない。


 俺はぶんぶんと首を振って意識を切り替え、倒れた女性へと駆け寄る。


「大丈夫ですか!」


「う……うぅ」


 女性は混乱しているらしく怯えた目で俺を見上げた。


 見たところ四十後半くらいだろう。腰が抜けているのか、俺の差し出した腕に掴まったものの体がうまく動かせないでいる。


 破れた茶色い服は土で汚れ、腕や顔も酷く擦り剥けて血が滲んでいた。


 とにかく安全なところに……そう思った瞬間。


「キール!」


 あるじの声が弾け、黒い魔物の一体がこちらに狙いを定めて身を翻したのがわかった。


 う、嘘だろ!


 咄嗟に女性の手を放し魔物とのあいだに立って短剣を鞘から引き抜いたけど……む、無理だって!


 戦ったことなんて一度もないし!


 ――だけど逃げることも考えられない。


 後ろにいる女性を見捨てるなんてできないし……あるじが戦っているのに俺が逃げるってなんだよ! とも思ったし……!


 いや、勿論恐いし……なんなら膝が震えてるけど!


 だから当然――。


『グルゥッ』


「うっ……うわあぁッ⁉」


 喉を鳴らす魔物が高く跳ね上がったのを避けるわけにもいかず、俺はのし掛かられて両手で握り締めた短剣ごと呆気なくひっくり返る。


 鈍い感触が腕――そして肩を伝わり、冷たい土が俺の後頭部を受け止めた。


 ガチィッ!


 生臭いというかえた臭いというか……とにかくいろいろな臭いが混ざり合った細長く張り出した口。


 そこにずらりと並ぶ黄ばんだ牙が目と鼻の先で噛み合わされ、俺は頭が真っ白になるのを感じた。


「…………うあ」


 次は絶対に噛み付かれる――俺、死ぬのか?


 ふうーっと意識が遠のきかけ……爺ちゃんごめんと瞼をぎゅっと瞑る。


「キールッ!」


 だけどそのとき……黒い魔物を横から弾き飛ばすようにしてあるじが割って入り……目を瞠った俺は見た。


 紅色のドレスを翻し、まるで踊るような美しい動作で剣を閃かせるあるじ――カシスの姿を。


 ……絵画に描かれる美しい精霊みたいだと思った――なんて言ったらあるじは喜ぶかもしれない。


 意識は飛ぶどころか凜とした彼女の姿に完全に持っていかれ、俺は思わずこぼした。


「…………やばいだろ、それ」


 そうして最後の一匹が倒れ伏したと同時、俺は起こしかけていた上半身をばたりと地面に投げ出す。


 はー……死ぬかと思った……。


 心臓は狂ったように跳ね回っていて変な汗が滲む。


「キール、怪我は…………いえ、待って。痛かったら起き上がらないでいいわ! そう、助け……まず助けを呼んでこなきゃ……」


 慌てる彼女に目線だけ向け、俺は「大丈夫」と応える。


 ……どういうわけか指が強張っていて握り締めた短剣が放せないこと以外は……だけどさ。


 あるじは俺の言葉に安堵の息をほーっと吐き出すと、帽子をぎゅっと押さえながらすぐに女性の様子を確認した。


「――気を失ってしまったようだけれど彼女も大丈夫そうだわ。かわいそうに、顔も泥だらけね……」


 そう言うとあるじはおもむろにドレスの裾を捲り上げて布を取り出し――って、いやいやいや。


あるじ! なんでそんなところから布なんて……っていうか俺が目のやり場に困る!」


「あら、裾の内側にたくさんポケットを付けてあるから便利なのよ? 安心していいわ。緊急時以外で物を出すときは宣言してあげるから」


 そういう問題か? ……違うだろ、違うよな?


 考える俺をよそにあるじは布で女性の頬を拭ってあげてから振り返る。


「……キールは起きられる? 私、誰か呼んでこようと思うのだけれど」


「あー、起きるのは問題ないけど……」


 俺は上半身を起こし、短剣を握った右手を持ち上げた。


 それを見たあるじは眉を寄せて首を傾げる。


「……?」


「なんていうか、……その……放せないんだ……」


「あ! ……そうよね、初めて魔物を突き通したんだもの……気付かなくてごめんなさいキール」


 あるじは大きな目を丸くすると俺の隣に膝を突いてそっと手を包む。


「突き通したって……?」


「倒れたときにあなたが魔物を突いていたってこと。おかげで簡単に倒せたけれど……ごめんなさい。私がすぐに仕留められなかったからだわ……」


 眉尻を下げて言う彼女の瞳には俺への気遣いが浮かんでいる。


 俺はそこで初めて自分が魔物を刺したんだと気付いた。


「魔物を……俺が……」


 そうか……あの感触は魔物を刺したときの。


 呟いた俺の手を包むあるじの白い手は剣を握るひとのそれ。


 少しひんやりしていて心地よく……俺は彼女が一本ずつ指を開いてくれるのをぼんやりと眺めた。


 あるじはああやって戦ってくれたのに俺ときたらこのざまか……。


 これは情けなさすぎるよな。


「無理しないでいいわキール。こんなに村に近い場所で魔物なんて想定外だもの。強張るのも当然よ」


「うん? ああ、大丈夫だよ。むしろちょっと鍛えないとなと思ったところ」


 そこで俺の手から短剣がするりと抜け、あるじは慣れた手付きで鞘に収めた。


「はい、取れたわ。……鍛えないとって、どうして?」


あるじが戦ってるのに従者がなにもしてないって格好悪いなってさ。それに〈宮廷カクトリエル〉になったらいろんな場所を見られるんだから、魔物にだって出会すってことだ」


「そう……あなた前向きなのね。なら、はい。この短剣、ベルトに挿しておくといいわ。私からの贈り物よ」


「え? いや、贈り物なんて……これ高いだろ?」


「あら。贈り物は値段じゃなくて気持ちよキール! とりあえず少し待っていて。すぐに誰か呼んでくるわ」


「あ、ちょっ、待ってあるじ。また魔物がきても困るし……もっと安全な方法をとろう」


 俺は駆け出そうとするあるじを止めて……動くようになった右手を握ったり開いたりしてみせる。



 ――そんなわけで。



「驚いた……あなた鍛えないとなんて言って……それは反則よ」


 女性を抱き上げて運ぶ俺にあるじは唸ってばかり。


「いや、これは日々酒樽や酔い潰れた人を運んだりする家事の賜物っていうか」


 ……元から女性ひとりくらいなら運べるだけの自信はあるというか。


 苦笑して応えると彼女は帽子の鍔を両手で押さえて首を振った。


「それでも気を失った女性を抱き上げるなんて相当よ? ……人は見かけによらないのね」


 それはちょっと失礼じゃないかなあ。


 俺が口には出さずに軽く首を竦めたところで、あるじが顔を上げた。


「あ! 誰かいるわ! 行きましょうキール!」


 彼女の視線を辿ると……本当だ。


 上下が繋がった深緑の作業服を着た大柄な男性が見える。


 あるじは手を振りながら大きな声で言った。


「ねぇそこのあなた! 助けてもらいたいのだけれど!」


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