スグリノレクス⑬

******


「すまないね、うちのカクトリエルが」


「いえ……こちらこそ……その、あるじがすみません……」


 頭を下げる俺の前、使い込まれた濃い茶色の木製テーブルを挟んだ向こう側で柔らかに笑う白髪の御老人。


 スグリノ村長、スグリノさん――爺ちゃんと呑んでいたという鍵を握る人物だ。


『よかったら一杯どうかね』と言って酒瓶とグラスが入った籠を掲げてみせた彼を、俺は部屋の共有部に招き入れた。


 でも……正直どうしていいかわからなくて……。


 だってそうだろ……聞きたいことはあるけどなにを話したらいいんだ? というかあるじがいない状態で話してもいい内容なのか?


 ……するとスグリノ村長がなにかをコトンとテーブルに載せた。


「……え……と。酒、ですか?」


 俺の手のひら程度で決して大きくはない遮光瓶。表面にはなにも貼られていないけど……酒に使われる瓶だ。


 スグリノ村長はなにも応えずに茶色い目をくりくりさせて笑うと、用意してあったグラスをテーブルに置く。


 次の瞬間、村長によって淀みない動作で栓を開けられた白グレプ酒が注がれ――グラスの内側で薄く黄色がかった液体が煌めいた。


 ……スグリノ村長……カクトリエルだったのか!


 慣れた手付きに思わず目を瞠り黙って見ていると、彼は遮光瓶の栓を抜き――。


「……!」


 俺はごくんと息を呑んだ。


 細く糸を垂らすように注がれたその液体・・・・はベルンに似て甘いけどもっと濃厚で重たい――大人の好む落ち着きのある香り。


 ……黒いかと思いきや村長が銀の匙でくるりと混ぜると、白グレプ酒に溶けて美しいくれないに変わっていくその色。


「……これ……は……」


 指先が震えた。


 これ……この香りと色……俺は知っている。


「【スグリノ】というカクテルだよ」


 スグリノ村長はそう言って遮光瓶を俺に差し出した。


「本当は白ベルン酒はあとから入れるんだ。スグリノ酒は重たいから沈んでしまう」


 その注ぎ口から芳る濃厚な……どのベルンとも似ているようで異なる甘い香り。


「スグリノ……黒い実が成るベルン種の……この村の名前にもなっている植物ですか?」


 聞き返すと彼は白い口髭をもそもそさせて笑った。


「そうだね。しかしスグリノの実はそのままだとものすごく酸味が強いんだ。そこで私たちは酒にして呑んでいる。……薬酒だね。それを甘くしようと言ったのがカルヴァドスだよ」


「爺ちゃんが……?」


「スグリノ村では白グレプ酒とスグリノ酒が主な収入源でね。ただ『転移門』ができて多くの町と取引ができるようになったこともあって、わざわざうちの酒を買う人が減ってしまったんだ……。ならば酒場をと思って毎年資金を貯め、やっと製氷機も購入したがそれでもうまくいかない……。そんなときにカルヴァドスが来たんだ」


 スグリノ村長は俺にカクテルを差し出す。


「あ……い、いただきます」


 俺はそっとグラスを取ってその香りをゆっくり吸い込んだ。


 ――爺ちゃん。


 倒れた爺ちゃんの姿が脳裏を過ぎる。


 胸が苦しくなって……俺は紛らわせるためにカクテルを口に含んだ。


 ――甘くて……華やかだけど派手じゃない……そんな味。


 さっぱりとした白グレプ酒を合わせてあるから、スグリノ酒の量によってはそこまで甘みが口に残ることはないだろう。


 俺が覗いて怒られたあのとき、爺ちゃんはどんな気持ちで作っていたんだろう?


「美味い……です」


「……『これを村の名産にすればいい。名前は【スグリノ】でどうだ』――なんてカルヴァドスが真面目な顔で言うから笑ったよ。――それからだ。私は彼と一緒にこのカクテルを作り上げ、村を豊かにすることを夢見てしまってね。……キール君……カルヴァドスはいったいどうしたのかな――? 君は泣きそうで、君のあるじはずっと気遣っていた。……あまりいい話ではないのだろう?」


 …………。


 俺はもうひとくちカクテルを吞んで……ぎゅっと唇を噛んだ。


 俺、そんなに泣きそうな顔してたのか……。


 鼻の奥がつんとして堪えようと思ったけど……爺ちゃんのことを考えたら勝手に唇が震えた。


 そもそもスグリノ村長に隠していることが爺ちゃんのためにはならないって、そう思ったんだ。


「スグリノ村長……じ、爺ちゃん……襲われて、頭を打って……起きないんです……」


 掠れた声はきっと聞き取りにくかっただろう。


 酷く情けない音しか紡ぎ出せない自分が嫌になる。


 村長は瞬きひとつ、呼吸ひとつの時間を空けて繰り返した。


「……カルヴァドスが襲われた……?」


「はい……。爺ちゃんは……〈宮廷カクトリエル〉で……俺の、自慢の爺ちゃんなんです……。きっとこの、カクテル……有名に、したかったんだ……なのに……」


 ぽろ、と。


 頬を転げ落ちていく雫。


 テーブルで跳ねるそれは……ひとつ、ふたつと増えていく。


「なのに、爺ちゃん……『建国祭』に出られなかった――れ、レシピも……盗まれて……」


 そのときのスグリノ村長の顔はきっと忘れられない。


 茶色い目を見開き、絶望すら感じさせるほど哀しそうな顔で……息を呑んだんだ。


「そんな……カルヴァドス……なんと惨い」


「…………う」


 俺はこぼれてくる涙を腕で拭い必死で息を吸う。


 前を向いていなきゃと……俺がしっかりしなきゃと思っていたけど、やっぱりできなかった。


 爺ちゃんがこのまま起きなかったら……?


 どうしてもその考えが頭から離れない。


 爺ちゃんのいない日常なんて想像できないよ。俺をここまで育ててくれたのは爺ちゃんなんだ――。


 ……目の奥は熱いのに急激に冷えていく体がひび割れて壊れてしまいそうだと思った。


 それだけ……痛くて苦しかったんだ……。


「……キール君、君はカルヴァドスのためにここに来たんだね」


 そのとき――村長が静かに言う。


 俺は嗚咽を堪え何度も頷いて、乾いた唇から懸命に音を紡ぎ出す。


「は、はい……。爺ちゃんの、カクテル……俺が、代わりに、女王様に……だから」


「――それなら……これはカルヴァドスのために君に託そう」


 温もりのある柔らかな声。


 スグリノ村長は籠から一本の瓶を取り上げ、ことん、とテーブルに置いた。


 半透明の瓶の中……濃い……黒く見えるほどの紅色。


「カルヴァドスが持ってきた『スグリノの実』で作った酒だ。昨日の朝、彼が取りにくるはずだったものだよ。……彼が言っていたんだ。これを吞ませたい人がいるとね」


「……!」


 瞬間、俺はびくりと肩を弾ませてその瓶を見詰め、できるかぎり優しくそっと手に取った。


 ――吞ませたい人がいる……?


 そのとき、俺は思い出したんだ。


『建国祭』で蒼髪のカクトリエル『セルドラ』が言っていた言葉を。


 ――『この美しい紅色はまるで女王の瞳』


「……ああ」


 吐息が音になってこぼれる。


「俺……爺ちゃんのカクテル……どういうものかわかりました。スグリノ村長……」


 俺は涙を拭い、鼻を啜って頷く。


「帰らないと……。やらなきゃならないことがあります……」


 爺ちゃんのために。


 爺ちゃんがやろうとしたことのために。


 それを見たスグリノ村長は微笑むと小さく二度頷く。


「……それなら今日はもう寝てしまうといい。明日の朝、ちゃんと食べて、そして行きなさい。カルヴァドスの孫を夜中に放り出したら私が怒られてしまう。……それに、君のあるじも眠っているようだしね」


「はい」


 俺はしっかり頷いて……すべてが終わったら爺ちゃんと一緒にスグリノ村長とゆっくり話すことを約束した。


 馬車なら魔物も襲ってこないからと帰っていく村長を見送って部屋に戻り、あるじにまた『酷い顔ね』なんて言われるのも癪だから顔を洗う。


 ……よし。


 呑み込んだ涙はしょっぱくて。


 でも……気持ちは晴れていたんだ。


 やることは決まった。作るカクテルがどういうものかはわかった。


 あとは俺がどれだけ再現できるか――それだけだ。


 ――爺ちゃん。必ず俺が……爺ちゃんの栄誉を守るから。

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