フィーリア・レーギス⑧

「カシス様ッ、お下がりください!」


「いいえ下がらないわマルティ! 町はすぐそこよ、ここで仕留めないと被害が出るかもしれないわ――」


 マルティさんも両手剣を構えていたけど――無謀だよこんな……。


 俺は震える手で短剣を抜き放ち、左手を石突きに添えて構えた。


 あんな大きな魔物を相手に戦うなんて……俺たちは冒険者でも物語の主人公でもないのに!


 そのあいだも馬たちは酷く怯えて泡を吹きながら前足で地面を掻き、興奮状態に陥っている。


『グルル……ルル』


 魔物はその巨体をゆっくりと倒し四つ足の姿勢を取った。


 俺は全身が急速に冷えるのを感じ、咄嗟に膝を曲げて腰を落とす。


 ……反応できたのはたぶん本能。もしくはマルティさんとノッティさんにこの数日で叩き込まれた教訓か。


『グルルゥゥオオッ!』


 ――放たれた矢のような、と。


 誰かが使ったことのあるだろう速さの例えはきっと的を射ている。


 その巨躯からは考えられない速度で駆け出した魔物は飛び退くマルティさんとあるじを無視して俺に突撃してきたのだ!


「キールッ!」


 あるじの声が耳朶を打つ。


 俺は右へと地面を蹴ってそれを交わし、俺を追って身を捻りながら魔物が振り下ろした黒い爪を間一髪で避けた。


 ぶおん・・・、と。


 空気が裂ける音。


「は、は……はあッ」


 息が苦しい。心臓が破裂しそうだ。


 怖い。恐い。死にたくない。


 それでも目を逸らしたら駄目だと己を奮い立たせ剣を向ける。


 カシスに戦わせるだけなんて駄目だ。


 そんなの絶対に駄目なんだ――!


「――私を無視するなんていい度胸ね! 相手はこっちよッ!」


 瞬間、星明かりを散らす刃が魔物の後ろから閃いた。


『グルッ……ルル……!』


 あるじの一撃が腹を斬り裂いた――そう思ったけれど魔物の血のような赤い瞳は動じてもいない。


 虫でも払うかのように両腕を振り回す魔物を素早く迂回したあるじは俺の近くに走り寄り、その背に俺を庇った。


「怪我はない⁉」


「な、ないけどッ! こ、こんなの相手になんて……どうしたら……」

 

「目は逸らさず離れすぎずに避けることだけ考えてキール君! 体毛が鎧の役割を果たしているので斬るよりも突いてすぐ離れることを推奨します、カシス様!」


 及び腰になる俺にマルティさんが言い放って魔物の左腕を言葉通り突き通す。


 堪らず左半身を引いた魔物は両腕を広げてマルティさんに掴みかかる――が。


 意識をそっちに向けた魔物をあるじは見逃さなかった。


「は――ッ!」


 吐き出される気合が音となって、体の左に引いた剣を一気に――真っ直ぐに打ち出す。


 紅のドレスの裾が踊り金色の髪がぱっと跳ねる。


 刃は魔物の脇腹を突き、太い絶叫が虚空に響き渡った。


『グルルゥゥオオ――ッ!』


 俺は鼻から息を吸って口から大きく吐き出し、歯をこれでもかと食い縛る。


 やらなきゃやられるんだ……覚悟を……決めないと!


 このままずっと庇われているなんて……そんなの絶対に駄目だ……!


 そのあいだにあるじが魔物から離れ、すぐさまマルティさんが狙い打つ。


 魔物は剥き出しの牙の隙間からフシュウと音を立てて息を吐き出し、マルティさんの剣を振り払った。


「……なかなかいい反応だね。じゃあこれはどう、かな!」


 マルティさんはからかうように切っ先をちらつかせ、涎を撒き散らす魔物にそう言って踏み切る。


 突き、突き、転じてもうひとつ突き。


 堪らず距離を取った魔物は四つ足で再び突進の姿勢を取り……。


 ――ここだ、と思った俺は思いっ切り地面を蹴った。


 赤い瞳がギロリと俺に向く。


 だけどマルティさんに飛び掛かろうとしていた体勢を急に俺に向けることまではできないはずだと……そう思ったんだ。


「――ッ!」


 息を詰め、刃を突き込んだ俺の手には鈍く、重く、生々しい感触。


『グルルゥゥオオアアアァァッ!』


 魔物は轟く叫び声を上げると『傷付いた右眼』を庇うように両手を振り、後ろ足で踏鞴を踏んだあとで踵を返して駆け去っていった。


 ――逃げたんだ。


「はぁっ……は、はぁ……はぁ……」


 詰めていた息を吐いて、震える手に握る剣を掲げる。


 心臓が耳元で鳴っているように感じて、額に汗がじわりと滲む。


 やった――そう、やったんだ。


 逃げ去る魔物の黒い影が草原の岩陰に消えていく。


 途端に膝から力が抜け、俺はその場にへなへなと座り込んでしまった。


「は……はぁー…………ッ、し、死ぬかと……思った……」


「キール! もう大丈夫よ、だから安心して……短剣は放せる?」


 気遣うように俺の前に立ったあるじはそう言っておろおろと剣を収める。


「大丈夫、た、たぶん……自分で放せ…………ん、あれ」


 俺は何度も指先に力を込めようと足掻き――眉尻を下げてあるじを見上げた。


 ――うん。放せない……。


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