第32話 着替えの教室 【2995文字】

 先に動いたのは、九条の方だった。


「うわぁっ! ゆ、ユイ。いたのか? すまん。気づかなかった」


 慌てた様子で脱いだばかりのシャツを引っ掴み、そのまま羽織りながら教室を出て行こうとする九条――を、ユイは扉の前に立ちふさがって止めた。


「待つでござる。そんな中途半端な状態で出て行かなくてもよいでござろう」


「いや、お前自分の状況を考えてみろよ」


「その言葉、お主にそっくり返すでござる」


 確かに、お互いにきわどい姿ではある。ユイはバスタオルで前を隠しながら、それでも扉の前をどかずに言う。


「どうせ九条殿も、濡れた制服を着替えに来たのでござろう。やましい気持ちがないなら堂々としていればいいのでござるよ。あ、でもこっちは向かないで」


「お、おう」


 最後の語尾すら付け忘れたユイの言葉に、なにやら本気の危険さを感じて、九条は後ろを向いた。


「うむ。それでよいよ。拙者も向こうを向いているゆえ、お互いに着替え終わるまで振り返らない。よいな?」


「あ、ああ……」


 九条は窓の外、降りしきる雨を見ながら、着替えを進める。一方のユイは廊下と教室を隔てる壁を見て、そのまま着替えを続けた。


「そういえば、お主がこの教室に来るなんて珍しいでござるな。拙者、去年からここを着替えるための場所として使っていたでござるが……」


「そりゃあ……俺は去年まで電車通学だったからな。その頃はこんなに濡れなかったんだよ」


「そういえば、お主が原付免許を取ったのは今年でござったな」


「ああ。こんなに濡れるとは思わなかったよ」


 雨に対して、九条は何の備えも無くやって来たらしい。


「ってことは、バッグや教科書もずぶ濡れでござるか?」


「いや、そっちは大丈夫だった。ちゃんとメットインに入れてきたからな」


「メットイン? そんなのついていたのでござるか?」


「ああ。エンジンフードの中っていうか、一見するとガソリンタンクみたいに見える部分があるだろ。あそこに荷物とか入れておけるんだよ」


「そうでござったか。いや、確かに50ccにしては大きいと思っていたでござるが、そんなカラクリがあったとは」


 ユイにとって、原付の構造は未知のものである。実際に九条の車体を見た時も、その構造はほとんどよく分からなかった。あえて言えば、ブレーキ系統の部品がマウンテンバイクと酷似していたのを理解できたくらいだ。


「よし。俺は着替え終わったぞ。ユイは?」


「え? あっ! 話に夢中になっていて、つい忘れていたでござる」


「おいおい。ホームルーム始まるぞ」


「仕方ない。九条殿、先に教室へと向かっておれ。拙者は後から追い付くでござる」


 一見すると合理的な方法。しかし、致命的な問題がある。


「いや、俺、お前が着替え終わらないとそっちを向けないんだが?」


「む?……あ! そうでござった」


 気づいたユイは、ばたばたと急いで着替えを進める。とりあえずまだ若干湿っている下着をかばいながら、上から体操服のシャツを着て、ハーフパンツを履いて……

 髪はどうしようか。まだ水分の残る状態だが、せめてブラッシングしてから、などと言っていられる時間ではない。


「仕方ない。これで完了でござる」


「よし。さっさと教室まで戻るぞ」


 二人で頷き合って、走って教室へと向かう。その道中、ユイが小さく言った。


「のう、九条殿?」


「ん?」


「こ、ここであったこと、他言無用でござるよ。互いに要らぬ誤解を招かぬように」


「……言われるまでもない」


 こうして、二人だけの秘密はひとつ増えたのだった。






 ところで、いつぞや誰かが『誰にも言うなと言うほど噂は広がる』と言ったのを覚えているだろうか? 覚えていなくてもいい。

 九条が空き教室に駆け込んだのも、その後ユイと一緒に体操服で出てきたのも、他の生徒によってばっちりと目撃されていた。当然、聡い連中はその意味もすぐに理解――どころか、妄想による補完を施した超理解をする。

 ――結果。



「くっはははは。ユイ。マジかよそれ!」


「本当でござる。本当に着替えていただけでござるよ」


「アミ。笑い過ぎよ。私もこらえるのが大変なんだから」


「カオリ殿の言う通りでござる。笑うなんて失礼でござ――待ってカオリ殿。なんでお主まで笑いをこらえているのでござるか?」


「えっと、えっと……つまり、私は九条君の目をえぐり出すだけでいいの?」


「イア殿!? お主そんなキャラじゃないでござろう!?」


 秘密など作るものではない。いっそ自分から真実を言いふらした方が、よほどマシだということだけは、ユイも真剣に痛感した。


「まったく、お主らは何でも勝手に盛り上げすぎなのでござるよ」


「わりぃな。ユイが面白いからさ」


「ごめんなさい。ユイが面白いから、つい」


「ユイちゃんが面白いのがいけないんだよ」


「3人とも反省しとらんな!? イア殿に至っては謝ってもいないでござるな」


 活発なスポーツ少女のアミ。いかにもお嬢様といった雰囲気のカオリ。そしてザ・図書委員ことイア。お馴染みの3人は、こうして昼休みになるといつものように集まっている。


「……というより、いつも送迎で来るカオリ殿はともかく、イア殿とアミ殿は自転車通学のはずでござろう? どうやって雨をしのいだのでござるか?」


 当然のような疑問が、ユイの中に湧いてくる。それに対してシンプルに答えたのは、まだ右手の怪我が治っていないイアだった。


「私は、怪我してからずっと自転車に乗ってないんだ。あ、治ったらまた乗るつもりだよ? だけどそれまでは、駅から歩きだね」


 もともと、イアは駅から学校までの区間だけを自転車で移動していた。つまりいずれにしても、電車を使うのに変わりはないわけだ。


「なるほど。傘を使えば濡れずに済むのでござるな」


「まあ、それでもあんまり酷い雨だと、下の方は濡れちゃうけどね。今日は風もあったから、スカートの裾あたりまでびちょびちょで……」


 自転車でなくとも、そのあたりは問題らしい。


「私は自転車に乗らないから解らないのだけど、合羽を着たらいいんじゃないかしら?」


 カオリが訊いた。それに対して、イアだけが頷き、ユイとアミが首を横に振る。


「え? 私、よく合羽を着て自転車に乗るけど、ダメなの?」


「ダメだな。どのみち靴は濡れるし、意外と隙間から入ってくるだろ。スカートの長さをカバーできるほど長いと、チェーンとかサドルとかに絡まるし」


「それに、蒸れてしまうから汗でびっしょりでござる。どのみち着替えが必要になるだけでなく、熱中症や脱水症状の危険もあるし、動きも制限されるから危険でござるよ?」


 と、3人とも意見が割れるのは当然であった。乗る距離や運動量が違うのだ。

 せいぜい駅から学校までしか乗らないイア。市内にある家から学校まで通うため、イアよりは長距離を走るアミ。そして市外に住んでいながら学校まで乗ってくるユイ。

 それぞれのライフスタイルが違えば、理想とする自転車の乗り方も変わってくる。合羽はイアにとっては、濡れるのに比べれば我慢できる程度のもの。アミやユイにしてみれば、我慢以前にどのみち濡れるものだった。


「む? それでは、アミ殿はどうやって着替えているのでござるか?」


 ユイが訊くと、アミは得意げに脚を組んで胸を反らした。反らしたところで起伏を生まない胸は、お腹までのなだらかな稜線をぺたーんと描く。


「ま、そこはアタシの特権ってところだな。ユイも今日みたいな日があったら、アタシに連絡して来いよ。秘密の対処法を教えてあげるからさ」

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