第21話 先輩と整備スペース 【3023文字】
平日の夜で、客が誰もいない時間帯。こうなってくると、この店はそれなりに暇である。夕方をしのぎ切ってしまえば、あとは平和なものだった。
チーフメカニックも帰宅してしまったので、あとはルリとユイ、そして店長しか残っていない。なので、バイトの二人は公私混同で遊び始める。主に、自転車で……
「……ユイ。私との約束を破りましたね?」
店内のレジ横に設けられた、オープンな整備スペース。本来ならお客様の車体を修理したり、部品の取り付けや新車の組み立てなどをする目的のスペースなのだが、今日はそこにユイのママチャリを持ち込んでいた。
その車体を暇潰しに点検していたルリは、開口一番にユイを責め立てた。
対するユイは、
「はて? 何のことでござるか?」
完全にすっとぼける姿勢である。目線を斜め上に向けて、唇を尖らせる。これで口笛でも吹ければ満点だ。
「ユイ。貴女は力が強すぎるんです。だから私は言いましたよね? 『絶対に本気は出さない事』と――」
「う……そ、それは」
「シティサイクル(ママチャリ)は、そこまで強いペダリングに耐えられる設計ではないので、本気を出してしまうと足回りの部品が破損する。と、言いましたよね?」
「むー……」
「メカニック泣かせなんですから」
「し、仕方が無かったのでござるよ。変な男たちに車で追いかけられて、逃げるために必死だったのでござる!」
「はぁ……」
軽く目を閉じたルリは、ユイの方を見ずに言った。
「ユイ。やはり貴女には、自転車乗りの資格も、才能もありません」
「なっ……ルリ姉。いま、なんと?」
ユイが珍しく、凍るように冷たい目を向ける。しかし、その温度の低さはルリのそれに勝てない。ユイが液体窒素なら、ルリは絶対零度の視線を、とても自然に向けてくる。それがルリの普段どおりの態度だった。
「ユイは自転車に向かない、と言ったんです。前の車体だって、無茶な改造をして壊してしまったでしょう。それで今度は大事に乗ると言ったのに、それさえも守れていない。つまり、それは『資格が無い』んですよ」
「ルリ姉だって、前のレースで事故って脚を折ったくせに」
「あ?」
「ひっ!?……」
理不尽に近い怒りに、ユイも肩をすくめる。背丈はそんなに変わらないくせに、なぜかルリの目線が上になるのはどういう理屈だろう。
「ま、まあ、ユイちゃんもルリちゃんも仲良く、ね?」
「店長。私は決して喧嘩をしていたわけではありません。ユイに変わって、ユイの自転車を心配していただけです。持ち主に大切にされていないようなので――」
「拙者だって……拙者だって、自転車を大切にしているでござるよ」
半分くらい泣き顔になりながら、ユイが徹底的に抗議する。しかし、それはルリに届かなかった。彼女はもう振り返らず、店の奥に行ってしまう。
「むー。ルリ姉のバカ」
「まあ、落ち着いてよユイちゃん。それにルリちゃんが言ってた通り、本気を出しちゃったのも事実でしょう? ルリちゃんはそういうの、見れば分かっちゃう人だから」
「て、店長までそう言うのでござるか……」
どうやら、ユイに味方はいないらしい。
「あ、そう言えば、調整の依頼で来店予約の人、そろそろじゃないかな?」
店長が腕時計に目を落として、そう言った。
店の奥のスペースには、『お客様預かり中』と書かれた札が付いたロードバイクがある。特に壊れたところも無かったが、調整してほしいと言われた車体だ。こういう依頼も、わりとよくある。
その予定受け取り時刻が、もうすぐだった。
「本来であれば、担当したチーフメカニック本人がいると、話がスムーズなのでござるが……」
「まあ、チーフも勤務時間外だからね。車体は出来上がっているから、あとはこのメモの通りに説明して、お渡しするだけ。ユイちゃん、やっといてね」
「拙者でござるか? うむ。やってみるでござる」
チーフから預かったメモに目を落として、ユイはひとつひとつ項目を確認した。おそらく一般人には通じない用語が並んでいるが、ユイには理解できる。お客様はロードバイクの初心者らしいが、ひとつひとつ説明したら理解してもらえるだろう。
「ユイ。大丈夫ですか?」
「る、ルリ姉! いつから拙者の背後に!?」
後ろから突然声をかけられたユイは、さっとメモをポケットにしまうと、ライフルを突きつけるような姿勢で飛びのいた。
「あ、そこは日本刀の構えじゃないんですね」
「う……まあ、いまさらでござるが、拙者は別にサムライではござらぬゆえ……」
「まあ、なんでもいいですが、構え方がおかしいですよ。ストックは肩に担ぐものではありません」
「う、うるさいでござる。その綺麗な顔を吹き飛ばすでござるよ!」
がるるる……牙をむき出しにして威嚇するユイに、ルリは手を振って退散の意思を伝えた。
「そのお渡しのお客様。ユイがちゃんと対応できますか?」
「え? う、うむ。拙者だってこの半年、ルリ姉がいないままでも頑張ってきたのでござるよ?」
「そうですか。ではお任せしますが、何かあったら私に頼りなさい」
「う、うむ。かたじけない」
ルリが何を心配しているのか、ユイには分からなかった。今までの常連客だって、ユイの接客に満足していた。修理も整備も、チーフメカニックがしっかり対応したはずだ。そのうえユイ自身は面白くてユニーク。となれば、問題はないだろう。
そう思っていたのだ。ユイは。
「こんにちは。俺のロードバイク。出来てますか?」
ちょうど来店予約時間ぴったりに、その青年はやってきた。どことなく人のよさそうな、真面目そうな人だ。スーツを着てバックパックを背負った姿は、まさに
「いらっしゃいませ。えっと、ロードバイクのお客様でござりますか?」
ユイがとてとてと駆け寄っていくと、男は首を傾げた。
「あれ? いつものメカニックさんは?」
「あ、すみませぬ。本日はメカニックが全員退社してしまいましたので、せっ……わたくしが対応させていただく所存でござるます」
「ふーん」
彼はユイの姿を、じっくりと足元から見る。この地元でも珍しいグリーンのセーラー服。その上に整備用エプロン。そして胸には『アルバイト・天地 ゆい』の文字と、彼女が勝手につけているくまさん缶バッヂ。
「ゆいちゃんっていうの? 高校生なんだね」
「む? そうでございますが、何か……」
「ふーん。そっかそっか。若いのに偉いねー」
その客自身も若いと思うが、彼は急に老け込んだような話し方をすると、
「まあ、いいや。俺のロードバイク。ハリー!」
急に手を叩いて、ユイをせかした。
「は……はい。ただいま。こ、こちらでござる」
店の奥の、整備スペース横へと案内する。そこには、サービスも兼ねてピカピカに磨かれた、彼のロードバイクがあった。
「あの、失礼ですがお客様。お名前をうかがってもよろしいですか?」
「谷村だよ」
「谷村様。こちらのロードバイクでお間違いないでしょうか?」
「ああ、そう言っているじゃないか」
もちろん聞いている。マニュアルで確認する決まりになっているので、その手続きをしているだけだ。
メカニックからのメモでも、『谷村様よりお預かり。名前を確認すること』とある。それから、もう一つ――
「あの、谷村様。ご不便をおかけしますが、今回の点検で不具合が見つかりました」
「は?」
「大変申し訳ないのですが、変速機が不調となっております」
「ふーん。で? 直ったの?」
「直って……ございませぬ」
ユイがメモの通りにそう伝えると、谷村はとても嫌そうな顔をした。
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