第19話 あの日の約束 【3478文字】

 ――7年前。まだユイたちが10歳くらいだった頃の話だ。

 そのころから与次郎とユイは、仲のいい友達だった。なんなら今よりも交友関係が限られていた分、一緒にいる時間は長かったかもしれない。

 ユイの叔父は独身だが、子供好きだった。なので、よく姪であるユイやその友達を連れて、海やら山やら、いろんなところに連れて行ってくれたものである。



「ゆ、ゆいちゃん。ちょっといい?」


 ちょうど、あの時の空もこんな色だった。半分夕焼けで、もう半分が星空。


「どうしたの? オトヤ君」


 まだユイが、今の喋り方を始めていなかった頃――そしてまだ与次郎 音也よじろう おとやを、下の名前で呼んでいた頃。


「いや、あのさ……その……」


「――オトヤ君?」


 はっきりしない喋り方で、クラスでも目立たない存在。与次郎はそんな少年で、いつもこうして何も言えないまま、話が先に進んでしまうことが多かった。

 それでも、ユイはじっと待ってくれていたし、いつも与次郎を気にかけてくれていた。その優しさは基本的に、彼女の友達全員に平等に割り振られていた。なので、与次郎だけが特別に好かれていたわけではない。

 ただ、ユイにとっては特別じゃなくても、与次郎にとってのユイは特別だった。



「好きだ。ぼくと付き合ってくれ」


「え?」



 ユイが愛の告白なるものを受けるのは、きっとこれが最初だっただろう。

 ただ……


「私、誰かと付き合うとか、ちょっとよく分かんないや。ゴメン」


「ええっ!? だ、ダメなの?」


「ダメじゃないけど、その……ほら。私よりも、もっと可愛い女の子がいるって。それに、オトヤ君は、友達だし」


「他の誰かじゃダメだ。ゆいちゃんじゃないと――」


 必死な与次郎に、ユイが一歩下がる。


「じゃあ、私じゃなきゃダメな理由って、何?」


「え? そ、そんなの、分からないよ。でも、ゆいちゃんだけなんだよ。ぼくの話を聞いてくれるの」


「じゃあ、私じゃない子でも話を聞いてくれればいいの?」


「そ、それは……」


 そのあと、ユイはなんと言ったか、実は言った本人は忘れていて、ぼんやりとしか思い出せない。

 言われた方――つまり与次郎は、それを昨日の事のように思い出せる。この海に来ると、いつだって思い出していた。

 ユイは、こう答えたんだ。



「いつかオトヤ君は、いっぱい女の子にモテるよ。カッコいいもん」


「か、カッコいい?」


「うん。だから、そうなったら私の事なんか、忘れちゃうよ」


 好きだった女の子に、カッコいいと言ってもらえた。よく考えればそれは、断るときの方便で、どう考えてもお世辞なのだが、


「じゃあ、ぼくがカッコよくなって、女の子にモテるようになって、それでもゆいちゃんが好きだったら、どうする?」


 負けられない。諦められない。引き下がれない。そんな変な意地が、与次郎を突き動かしていた。あの日も――


「そうなったら、その時は付き合ってあげるね」


 そして、7年たった今も――






「ユイちゃん。ぼくさ。まだ女の子にモテモテって感じでもないかもしれないけど、でも今、確かに言えるんだ」


「な、何をでござるか?」


「……」


 濡れた前髪をかきあげた与次郎。その目は、いつもよりまっすぐに、ユイだけを見ていた。輝いた瞳が、まるで暗くなった海のよう……ユイは吸い込まれそうになるのをこらえながら、それでも彼から視線を外せなかった。



 与次郎だって、実は自分のしていることが空回りなんじゃないかと思ったこともある。

 なんなら、本当にあの日のユイが言った通り、誰か他に好きな女の子が見つかれば――正直、その子でもよかった。

 ただ、そうやって何かを吹っ切ろうとして、軽い男を演じて見せたりするたびに、

 一人になってから、ふと、あの頃の少年に戻ってしまうのだ。

 内向的で、上手く人と話せなくて、ユイだけが話し相手で、

 それでよかった頃に。



「ユイちゃん。ぼくは――」


 降り注ぐシャワーの水しぶきが、ライトアップされてキラキラと光り、二人に降り注ぐ。風は濡れた身体を冷やしにかかったが、高鳴る胸の熱さは治まってくれない。

 1秒が、まるで1分にも、1時間にも感じられる。そのうち、二人をライトアップしていた光は、いつの間にかおもむろに近づいていた。

 その光とともにやってくるのは、エンジンの音。通り過ぎるまで待たないと、声がかき消されてしまいそうな、そんな音――


「……?」


 しかし、その音は通り過ぎてくれなかった。どういうわけか、ブレーキ音まで伴って、与次郎たちの隣と呼んでもいいところで止まる。


「よう、ユイ。それに与次郎も。そろそろ帰るのか?」


「おお、九条殿。そっちもバイト終わりでござるか?」


「げっ!?」


 与次郎が九条を見て、苦虫を噛み潰したような声を上げる。心境としてはむしろ苦虫に噛みつかれた気持ちだ。


「げ……ってのは酷い反応だな。焼きそば、美味かったか?」


「あー、あれかー。ユイちゃんが言ってた親切なバイトさんってのは、九条っちの事だったんだねー。ちなみに焼きそば焦げてたぞ」


「……おかしいな? ちゃんと取り除いたはずだが?」


「ちゃんと焦がした記憶があるんだ!? ちなみに、さっきの焦げてたってのは嘘だよ。美味しかったよー」


 作り笑いを引きつらせる与次郎に対して、涼しそうな顔の九条。どうやったらこの気温の中、そんな暑苦しいエンジンの上に跨って涼しい顔が出来るのか、不思議である。


「おー、よしよし。相変わらず元気でござるな。九条号」


「なんだ九条号って? 俺の愛車に勝手な名前を付けるな。あと濡れた手でぺたぺた触るな」


「よいではないかー。よいではないかー」


「よくない」


 道路まで出てきて、楽しそうに九条のバイクを撫でるユイ。それを見ていると、なんだか与次郎も気合を削がれてしまった。


「ところで、九条殿。さきほどの屋台でも思ったのでござるが――」


「ん?」


「九条殿と一緒にいると、ドキドキするでござるな」


 さぁーっと、与次郎の頭が冷めていく。


(そっか。ぼくがユイちゃん以外を好きになるかどうか、って問題以前に……)


 当たり前のことだが、見落としていたこと。ユイに限って、そんな感情とは無縁だろうと、心のどこかで思っていたこと。


(ユイちゃんが他の誰かを好きになるかどうか、って問題があったんだ)


 いつまでも、一緒にいた友達で、ずっと待っていてくれる子で、小学生から成長が止まっているような言動の少女。

 そんなユイが、自分の知らないうちに、別な顔を持っていた。そういう事なのだろう。


「ユイちゃん。悪いけど、ぼくはみんなと一緒に撤収作業してるねー。また学校でー」


「え? あ、よじろー殿?」


「じゃ」


 大声でそう言い残して、さっさと走り去る与次郎。その顔には、シャワーでも海水でもない雫が流れ落ちていた。


「……慌ただしい奴でござるな」


「ああ、まあな。ところで、俺と一緒にいてドキドキするってのは?」


「うむ。なんと言うか、変な気分でござろう? 拙者は水着で濡れているのに、九条殿は普通に服を着ておるのだから」


「そりゃ、確かに変な気分かもな」


「うーむ……先ほどはイア殿も一緒にいたし、砂浜だったので気にならなかったでござるが、道路で一人となるとのう」


 何やらぶつぶつ言いながら、歩道に濡れた足跡をつけて回るユイ。

 九条がそれを面白がって眺めていると、彼女は唐突に手のひらを叩いた。


「そうでござった。拙者もそろそろ着替えてこないと! では、九条殿。明日また学校で」


「あ、ああ」


 ぱたぱたと走り去っていくユイを見て、さきほどの与次郎と大して変わらない慌ただしさを感じる。


(なんか、あいつら似た者同士だな)


 アスファルトに残された無数の足跡は、まるで子供のように小さく、それでいて割とくっきり土踏まずを残していた。






「おー、ユイ。まだ水着のままだったのか」


 アミが走ってやってきた。キャミソールにクロップドジーンズの彼女は、イアから預かってきた自転車の鍵を揺らしている。


「あ、アミ殿」


「ほかのみんなはもう車に乗っちゃったぜ。一応ユイを待っていようかと思ったけど、全然来ないからさ」


「うむ。すまぬ……」


 ユイの様子は、少し奇妙だった。何かを隠しているような、ごまかしているような……それでいて助けてほしそうな雰囲気を、アミは感じ取った。なんの根拠もないが、助けなくちゃいけない気がする。


「どうしたんだ?ユイ。元気がないぜ?」


「実は、の……」


 ユイは、とても言いにくそうに小さく、呟くのであった。


「下着、忘れてきたでござる」


「はぁ?」


「だから、水着を中に着てここまで来てしまったので、下着を忘れたのでござる」


「……マジか」


 これは助け船を出しにくい。実はアミ自身もやらかした経験はあるが、だからこそ、どうしたものか……

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