第28話 chase.2 【2660文字】
犯人は体力にも自信があるらしい。ユイに追跡されていることに気づいても、そのまま左右に車体を振って逃げる。
時折、公園の車止めや細い路地などを使っているあたり、土地勘はあるのだろう。例え自動車などで追跡されても、どこかで振り切る算段だ。
犯人の誤算があったとすれば、それはユイのママチャリを敵に回してしまった事だろう。
(……とはいえ、拙者としても相手を強制確保する方法が無いでござるな)
後ろから追いかけているだけなので、相手の人相などは分からない。前に回り込んでも、相手の顔まで確認することは難しいだろう。ここまで用意している犯人が顔を隠していないとは思えない。
自転車のカスタムだけでも覚えようとしているのだが、フレームは見たことも無いメーカーの物だ。おそらくネット通販で大量に出回っている廉価品だろう。足回りの部品はよく目にする機種だが、ありふれ過ぎていて何の手掛かりにもならない。
(警察に応援願うにも、いま自転車を止めたら逃げられるだけでござる……せめて、スマホが取り出しやすい所に入っていればよかったのでござるが)
こんな時に限って、そのスマホはスクールバッグの底だ。後ろカゴに入っているバッグを取り出し、そこからスマホを取り出して通報――相手を追いかけながらでは無理だ。
(仕方ない……アレを使うでござるか)
地元のサイクリングロードには、伝説がある。『殺戮ベア』と呼ばれる女子高生の伝説。
その女子――ユイのことだが――と競争した自転車乗りは、全員が病院送りにされる。そんな都市伝説だ。
さすがに尾ひれは付いているが、火のないところに煙は立たない。
(殺戮ベアと呼ばれた拙者の方法で、倒すとしよう)
ユイが急激に加速して、相手の後ろについた。
「!?」
犯人も動揺したようで、追突を避けるために速度を上げる。しかし、その速度はユイにとって、簡単に維持できる程度のものだ。
(さあ、ブレーキをかければ追突する――その恐怖から逃げてみるがよい、でござる)
もちろん、本気でぶつける気はない。これは脅しだ。
犯人の息が切れるのが先か。それともユイの体力が尽きるのが先か。
犯人は、大きく動揺していた。
(何だ……何なんだ。この女子は――)
今まで同じような犯行を何度かしていたが、こうして追ってくる人間が現れたのは初めてである。まして、ママチャリに単独で追い回されるとは思っていなかった。
自分の乗るロードバイクが、普通のママチャリより数段速いのは知っている。なら、なぜあの女子高生はママチャリで追いついてきて、余裕の笑みを浮かべていられるのか。
(くそっ。冗談じゃねーぞ)
距離まで詰められて、逃げ場も失いかける。事前に練っていた逃走経路は何パターンかあったが、とっくにその範囲を超えてしまっていた。そのうち自分さえ知らない道に出そうだ。
(信号機があったら、赤でも無視して越えるしかねーな。せめて事故るのが俺じゃなくて、アイツだけならいいんだが)
徐々に、息が上がってくる。脚も痛い。変速ギアを駆使して使う筋肉を変えてみるものの、基礎的な体力が不足している。
(チクショウ。こんなことになるなら、今日は止めておけばよかったぜ)
と、いまさら後悔しても遅い。ちなみに反省はしていない。割に合わない事をしたと思う程度だ。
(そろそろ、疲れが見えてくる頃でござるな)
ユイの追い回し方は、ある種の非道と言えた。
自転車にとって一番疲れるのは、速度を維持することではない。その速度を相手にコントロールされることだ。
減速したいところで加速させられ、加速できるはずのところで減速させられる。そんな走りを繰り返されたら、誰だって息が上がる。だからこそ、わざと相手のペースをコントロールするというのは、ロードレースでも見られるテクニックだった。
(自転車は本来、もっとマイペースな車体でござる。それがマイペースじゃなくなるだけで、いつもより2倍は疲れるでござろう?)
犯人が加速したいタイミングに合わせて、横から少しずつ幅寄せして速度を下げさせる。かと思いきや、減速したいタイミングで後ろに張り付き、追突寸前の煽り運転。
ユイの走り方は、確実に犯人の体力を削っていた。
(自転車に夢中になっていると、疲れを感じない人が多いでござる。……まあ、それに関しては拙者も他人の事を言えぬが、お主もそうであろう?)
自転車に乗ったまま、過呼吸や熱中症、脱水症状や呼吸困難を引き起こす事例は意外と多い。普通の人なら「なぜそこまで無理をしてしまうのか?」と思うかもしれないが、本人には無理をした自覚が無いのだ。
「覇ぁっ!」
ユイが空気を大きく吸い、そして大声に変えて吐き出す。空気がビリビリと震え、前方にいた犯人は反射的に脚を止めた。
(な……)
その瞬間、
(ん……)
蓄積していた無自覚な疲労は、
(だ……)
急激に、彼の五臓六腑を襲う。
(……!?)
心臓が爆発しそうなほど強く、息をつく暇もないほど早く鼓動する。胃袋の中身がせり上がり、喉が詰まりそうになる。全身から汗がどっと出て、筋肉も間接も悲鳴を上げる。
それらの不調が、いっぺんに蓋を開けて犯人を襲った。その犯人のすぐ右に、ユイのママチャリが幅寄せする。
そのカゴに入ったクマのぬいぐるみを見た時、犯人はサングラスの奥の目を大きく見開いた。
(しまった!!――こいつが、先輩から聞いた噂の『殺戮ベア』か!?)
近所のサイクリングロードで語り継がれる都市伝説。
前カゴにクマのぬいぐるみを入れたママチャリ少女に出会ったら、決して相手にしてはいけない。もしも相手にした場合、いつのまにか意識を失い、病院で目覚めることになる。
(あれは冗談だと思って聞いてたが、実在しやがったのか!!)
パクパクと開いた口から、泡が飛ぶ。視界が暗くなってくる。耳鳴りと頭痛までやってきた。
何とか逃れようとした犯人は、無意識でハンドルを左に切る。そこは、小さな公園だった。車止めのためにいくつか並べられたポールは、自転車ならすり抜けられる。
(逃がさぬでござる)
ユイも犯人を追って、次のポールの隙間で左に曲がる。同じように公園に入り、石畳を駆ける。幸いにして、他に人はいない。遊んでいる子供を巻き込む心配はないだろう。
「くそっ!がっ!?」
犯人の自転車が、ついに倒れる。地面が石畳から砂地に変わり、ロードバイクの細いタイヤでは突き刺さってしまうのだ。
「ふふっ。追い詰めたでござるな。さあ、観念するでござるよ」
ユイも自転車を降りて、倒れた犯人に馬乗りになった。これで終わりだ。
――と、ユイ自身はそう思った。
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