第29話 chase.3 【2428文字】

 ふわり――


(……ん?)


 地べたに倒れたまま、ユイにマウントをとられた犯人。彼が感じたのは、まさに『ふわり』と形容するような柔らかさと、軽さだった。

 この体重の軽さも、ユイの速さの秘訣の一つではある。自転車は他のスポーツと違い、必ず筋肉質な方が有利というわけでもないのだ。

 逆に言えば、自転車以外のほとんどの場面で活躍しない肉体である。

 そして――


(これ、息が整ったら、俺の方が強いんじゃね?)


 犯人はまだ、体力を残していた。もともと犯人は根性が無く、少しでも疲れると倒れるタイプだった。それが今回、回復を早めるきっかけにもなってしまったのだ。

 ユイの技は、強い意志を持った者にほどよく効く。逆に言えば、意思の弱い犯人には大したダメージを与えられていなかった。



「さて、それじゃあ現行犯で警察に突き出すでござるか」


 ユイがバッグからスマホを取り出そうと、ごそごそ中を漁る。この時、ユイの視線はバッグの中にそそがれていた。

 そのため、犯人の動きに反応するのが一瞬遅れた。いや、遅れていなかったとしても、パワーで押し切られていただろう。


「があああああっ!!」


「なっ……!?」


 ドサァッ!

 ユイの下で寝ていた犯人が、突然立ち上がる。ユイからしたら地面に持ち上げられたような感覚だった。


「お、お主、一体どこにそんな体力をっ……」


「うるせぇんだよ!」


 今度はユイが突き飛ばされ、地面に組み伏せられる。犯人に捕まれた両手首は、ぎっちりと締め付けられて動かせない。


(くっ。腕力はダメでも、脚力なら)


 と、蹴りを繰り出そうとしたユイだったが、空振りに終わる。仰向けに倒れたユイの上に、犯人が寝そべるようにのしかかったのだ。股の間に胴体を滑り込まされた。そのせいで、蹴り技が一切使えない。


「やめるでござ――っ!」


 ゴン!

 犯人の頭突きが、ユイの顔に炸裂する。

口の中に血の味が滲む。今の頭突きで押された口が、自分の歯に当たって切れたのだ。


「うるせぇって言ってんだろ! いいか。喋るんじゃねぇ。まして大声なんか出すな」


「……」


「そうだ。そうやって静かにしていろ! いいな!」


 男のサングラスが外れ、その顔があらわになる。見たことのない男だった。少なくとも、ユイの知り合いでないことは確かだ。


「顔も見られちまったか。まあ、それでも口止めさえすれば問題ないよな……」


「……」


 犯人が何を考えているか、ユイには分からなかった。口止めと言われて、最悪の事態がよぎる。


「おとなしくしてれば、殺したりはしねぇよ。何も言わなきゃいつもの日常に戻してやる。そのための材料は貰うけどな」


「……?」


 すっかり何も喋らなくなったユイは、相手の欲望を刺激する。追い回されていた時は不安で仕方なかった犯人だが、今になって思えばどうしてこんな少女に恐怖していたのやら。

 対するユイは、無策で追いかけた事を後悔……などはしていなかった。この状況でもまだ、やれることを考える。


(自転車にさえ乗れれば、逃げることも出来るでござるな。スマホは……手が届かぬか。いずれにしても、相手の隙を伺うしかないでござる)


 車のエンジン音などは、やや遠い。主要な道路から少し離れているせいだろう。

 その無数のノイズの中に、やや聞き馴染みのある音がする。オートバイのエンジン音。それも、無理やり高回転させられている時の音だ。


(この感じ……)


 ユイは覚えている。いつか彼にノートを届けに行ったとき、一緒に走って聞いた音。原付を限界寸前まで吹かしたときの音――

 その人物が今、こんなところにいるわけがない。今頃はバイトにでも行っているか、休みであれば帰宅しているはずだ。彼が近間で無駄な寄り道をしている姿はイメージできない。

 が、


「九条殿! 公園でござっ――!!」


 一瞬の叫びは、犯人の体当たりでかき消された。上からのしかかるような一撃は、速さや衝撃はなくても重さはある。


「静かにしてろって言っただろうが! 痛い目を見ないと分からねぇか!?」


「ぐっ――、ぬうううっ……」


 暴れるユイを全身で抑え込んだ犯人は、セーラー服の襟に手をかける。


「静かにしてりゃ、優しく裸にひん剥いて終わりだったのによ! 暴れるってんなら、こっちも時間かけらんねぇだろ!」


 セーラー服が左右に引っ張られる。ファスナーが壊れ、金具がいくつかはじけ飛んだ。飾りのリボンが取れて、前が大きく開かれる。


(え? そっち方面でござるか??)


 相手が痴漢であることは理解していたが、そのターゲット候補に自分も入ることについては考えなかったユイは驚いた。てっきり殴られたりするほうだと思っていたので、これは予想外である。


(九条殿……っ)




 バリバリバリバリ……


 バイクの音が、次第に大きくなってくる。近づいているのだ。


 ブオオオオオオ!


 聞き馴染みのある音は、やがて聞いたことも無い音に変わる。


「ユイ!」


 確かに、聞こえた。



「九条殿!」


「何っ!?」


 驚いた犯人が顔を上げた時、その目に映ったのは高速で接近するバイク。そして、投げ出されるように飛び出した青年の、靴。


「うらぁあっ!!」


「ひぐあっ!?」


 九条の飛び蹴りが、犯人の横っ面に当たる。転げるように吹き飛んだ犯人と、着地に失敗して自らも一回転する九条。そして、乗り手を失って倒れるバイク。


「九条殿。何でこんなところに!?」


「……妹から聞いた」


「いもうと?」


「ああ。……言ってなかったっけ? 俺に妹がいたの」


 まず間違いなく、初耳である。


「まあ、あんまり話すこともない妹なんだけどな。そいつが言ってたんだよ。『例の痴漢に遭った。ママチャリに乗った超絶速い女子が、その犯人を追いかけてった』ってな」


「む……」


 ユイが少し考える。つまり……


「おお。あれは九条殿の妹君であったか。顔はよく見てなかったでござるが、そうかそうか。あっはっは!」


「笑ってる場合かよ」


 九条が呆れながら、犯人に向き直る。すっかり伸びている犯人は、今度こそピクリとも動かなかった。死んでるんじゃないかと心配するほどには。



 今度こそ、事件は片付いたのだ。

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