第54話 ハンドルを引け! 【2905文字】
沿道には、観客たちが詰めよっている。
この酷暑の中、誰か身内を応援しようと垂れ幕や団扇を持ってきた者、何をしているのかも知らないまま人だかりに釣られて集まった者、並走してやろうと自転車持参で歩道を走ろうとする者もいた。
『さあ、早くもトップの選手たちは、競技場内3周を終えて場外へと向かいますぅ。私たちの中継も、ここからは中継車のカメラに切り替えますよぉ。
この放送は、県内テレビおよびインターネット生放送で最後まで中継いたしますぅ。
沿道に集まった皆様におかれましては、ゴミのお持ち帰りや一般的なマナーをお守りの上、一般通行の邪魔にならないように観戦してくださいねぇ。
なお、自転車等による選手との並走は、わき見運転や思わぬ高速運転に繋がる可能性がありますので、控えていただけると幸いですぅ。
それでは、本日先導を務める白バイ隊のご紹介を――』
三隅アナウンサーの声は、走行中の選手たちにも届いていた。なんという事はない。スマホを使ってネット中継から直接聞くことが出来る。
「懐かしいなぁ。半年前のレースを思い出すよ」
アキラが呟いた。レースの真っ最中だというのに、ずいぶんと余裕そうだ。その呟きを聞いた与次郎も、余裕な振りをして聞き返す。
「それって、日本縦断レースの時?」
「ああ、俺もそれなりに頑張ったんだけど、まあちょっとアクシデントがあってな。九州まで行ったところでリタイアしちまった。青森から頑張ったんだけどな」
「へー……」
世界は広いようで、思ったより狭い。あの大会の事は聞いているが、まさかその出場選手と戦う日が来るなんて思わなかった。
「ま、関係ないか。今日はママチャリレースだもんねー。だから、ぼくも勝つつもりでいくよー」
普段なら自動車が多く走る道を、半分だけ通行止めにしたコース。与次郎にとって少し違和感があるが、思い切って車道の真ん中に寄る。
(うわー。道路の真ん中を自転車で走っちゃったよー。こんな経験、多分もう二度とないだろうなー)
しかし、これで本気が出せる。細かいコントロールを気にせず、自転車を精いっぱい漕げる。
細いながらもしっかりと鍛え上げてきた脚の筋肉を、思いっきり膨らませる。
アキラよりも少しだけ、前に出ることが出来た。
(まだだ。まだ加速できるはずだよー……)
喉が焼けそうになる。それなりに肺活量を鍛えてきたつもりの与次郎だが、それでも今日ほど呼吸をした日はないかもしれない。
車体の半分ほどリードした段階で、与次郎は相手が気になってしまった。少しだけ振り返り、アキラの顔をうかがう。
その顔は、笑っていた。
「いいね。面白いぜ? オトヤくん」
アキラの乗った自転車が、大きく左に傾く。ハンドルは切っていない。コースも直線だ。
つまり、まっすぐ進んだまま車体を傾けたという事だ。それに何の意味があるのかというと――
「ぜやぁあああ!」
右ハンドルを上に引き上げながら、右ペダルを力いっぱいに踏みつける。こうすることで本来の体重を乗せる以上に、強くペダルを踏めるのだ。
チェーンがきしみ、フレームが悲鳴を上げる。それほどに強い力を、アキラは自転車に込めた。爆発的に加速した車体が、傾きながら前に出る。
そのままだと、自転車は左に曲がるか、あるいは倒れてしまう。その前に――
(もういっちょ!)
今度は逆に、左ハンドルを引き上げる。車体が右に倒れるのと同時に、やはり左ペダルを踏みつけた。
ハンドルは真っ直ぐ。軌道も左右にぶれたりはしない。
ただ車体だけが、まるで踊るように左右に揺れる。立ち漕ぎの状態で、アキラの身体と自転車が互い違いに傾いては戻る。
『アキラ選手がダンシング(立ち漕ぎ)で前に出ました! 順位は暫定1位。他の選手を出し抜いていきます。
大きな腰の振り方、うっかり目で追ってしまいますねぇ。じゅるり……おっと、そういう場ではないですかぁ。失礼しました。
誰でもできる簡単な加速方法。体力を犠牲にスピードを上げる必殺技。それがダンシング! 足だけではなく、全身の筋肉を使って自転車を漕ぐ方法ですねぇ』
(なるほど、そういう方法もあったのかー)
与次郎はこの段階になって、初めてそのフォームを知った。何しろ、ユイは普段こういうフォームで走らない。頼る筋肉の質が違うからだ。
(よし、なら僕も――うわぁっと!?)
見よう見まねで同じことをしようとした与次郎だが、その時に車体が滑る。後輪が真横に吹き飛ぶような感覚だ。急いでサドルに体重をかけて、その浮き上がったタイヤを地面に押し付ける。
何とか転倒は免れた……が、
(アキラさんと同じ技、ぼくには使えないかー)
単純に練度と技術の違いというわけではない。
むしろ、違うのは、
(車体の重さかなー)
(へぇ。オトヤも気づいたみたいだな。この秘密に……)
与次郎の乗ったママチャリは、本体後部にペットボトルを積んでいる。なので本体を揺らそうとすると、その重りも揺れて振り回されるのだ。
一方、アキラはそれを自分の背中に乗せている。なので自分の身体を揺らさない限り、車体を揺らしてもバランスが取れる。
(なるほど。ユイちゃんが言ってた『荷物を積むところによって性能が変わる』って話。あれはこういう事か)
そう理解した与次郎は、すっと目を閉じた。おそらく、時間にして一瞬だっただろう。それこそ普段の瞬きのように、レース中でも許される範囲の時間だけ、視界をふさいで考える。
(自転車の後ろにペットボトルを積む。その方法を考えたのはユイちゃんだ。彼女がぼくたちの不利になる作戦を立案するなんて、考えにくいんだよねー)
今のところ、アキラが有利にレースを進めている。が、しかし、
(この位置にも利点があるはずだよねー。気づきさえすれば、この状況を打開できるほどの理由が)
与次郎は考える。どうにかして、車体を横に揺らすことなく、全身の力を充分に発揮する方法。
(考えろー。考えろよー、ぼく。ユイちゃんが託してくれた車体の秘密。ぼくなら分かるはずだ)
要するに、ハンドルを上に引き付けるように走れればいいのだ。急激に力を加えるように、上から下に……
「そうか! 分かったよー」
アキラは、ハンドルを左右交互に引き上げている。だから車体が傾くのだ。
ならば、左右同時に引き上げたら……
「ふん!」
右足を使ってペダルを踏むとき、両方のハンドルを引くことで、自分の身体を抑え込む。上体が浮くのを腕力で抑え込み、片足でしっかりとペダルを踏みつける。
(これだ。これならいける)
アキラとの距離差が、少しずつ埋まってくる。
「アキラさん。まだまだ勝負はここからだねー!」
「おっと、そうくるか」
本来なら、その技は一朝一夕にできる事じゃない。車体の重量バランスや、それに対する自分の体重、筋力、その他もろもろのコンディションを理解しないと、上手く使えないはずの技だ。
(それを『思いついた』程度の感覚で使いこなすのか……どんな精神力してんだよ。オトヤ)
素人がやれば、前輪が浮き上がって転んでしまう。そもそもボルト一本で支えられたママチャリハンドルが、そこまで強い引きに耐えられない設計でもある。
そんな危険な技だと知らないからこそ、与次郎は恐怖を越えていけるのだろう。
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