第2話 伝説の自転車乗り 前編 【3184文字】
普通の女子高生こと、
まず起きるところから始まり、次にスマホのアラームが正確に作動したはずであることを確認する。そしてマナーモードにしたままだった昨日の自分を恨むところから、一日が始まるのである。
急いで顔を洗い、やや明るい色のセミロングヘアを梳かす。その頃には朝食を諦めていた。メイクなどは校則で禁止されているので、どのみちすることが無い。せめてリップクリームだけ塗って、さっさと家を出る。
玄関先でセーラー服の大きな襟を整え、靴を履くのが先かスカーフを留めるのが先かという攻防を繰り広げた。スカートのプリーツを片手で整えつつ、もう片方の手で玄関のドアノブをひねる。
じわっ……
夏の日差しは朝から猛威を振るっていて、湿気と汗で急に肌が湿り始めた。
と、その段になってから忘れ物を思い出すから困ったものである。一度履いた靴を脱ぐのも面倒なので、土足のままで鞄を取りに行く。すでに遅刻寸前だ。背に腹は代えられない。
そうして自転車に跨ったときに、
「あ……」
少しだけ、タイヤの空気が減っていることに気づいてしまうのであった。
「――というわけで、朝から大変だったのでござるよ」
彼女は何故か『ござる』口調で、担任に言い訳をして見せた。そのついでに、今日のホームルームの時間を潰すという芸当も披露している。
「あー、そうか。大変だったな」
そこそこ慣れている担任の男性教諭は、遅刻についてもさほど言及しない。ついでに言えば、ござる口調にも言及しない。何かのキャラクターに影響されたのだろう、としか思ってないのだ。そして事実そうである。
「ほ、本当でござるよ。本当に自転車のタイヤは、気温などによって気圧が変わるのでござるよ」
と、ユイは真剣な表情で訴えた。
「あー、分かった分かった。もうお前が自転車バカなのは知ってるから、席につけ。もうホームルーム終わる時間だが、連絡事項だけ伝えるぞ」
ユイが自転車を語りだす、という最も時間を無駄にする事態を避けるため、あえて担任は何も言わない。
「なあ、ユイさん?」
ホームルームも終わり、ばたばたとした1限目も過ぎた休み時間のことだった。クラスメイトの男子が、ユイに話しかけて来る。たしか、
背は高いが、ひょろっとした痩せ型。黒髪をおかっぱのように切った彼は、やや斜めな前髪を指で流しながら言う。
「あんたさぁ。自転車が好きなのか知らないけど、遅刻が多くないかな?」
爽やかな声……まるで自然に囁くような、静かで優しい声の男だ。しかしその言葉は、ユイを確実に責めている。まるで氷の刃のように。
「す、すまぬ。拙者、何か迷惑をかけたでござるか?」
反射的に、ユイは立ち上がって頭を下げた。それを冷たく見下ろした九条は、とくに表情を変えるでもなく言う。
「あのさ。あんたの遅刻のせいで、ホームルームが伸びたわけだよな。理解しているか?」
「す……すまぬ」
「もっと早く起きるとか、もっと早く支度するとか、何か方法は無かったのかよ?」
「面目ない。可能な限りの手は打ったのでござるが……」
ただでさえ少しだけ小柄なユイが、さらに縮こまる。なんとなくこういう時に何かに掴まってないと落ち着かないのか、ユイはセーラー服の赤いリボンをつまみながら、うつむいていた。
周りのクラスメイトも、九条を止めるでもなく、ユイを責めるでもなく見ている。どちらにも加担しづらいのだ。
もちろん、九条だって反省しているユイをこれ以上責めるつもりもない。何より、そろそろ次の授業が始まる。
「まあ、今後は気を付けろよ。自転車のタイヤが原因だって言うなら、もっと早く起きてメンテナンスするとか、前日までに対策を練るとか……」
「う、うむ。善処いたす」
「それか、まあ……」
「?」
ユイがようやく顔を上げる。それを確認した九条は、軽く口元を緩めた。笑ったように見えた。
「自転車を辞めるか、だな。もっと速い乗り物に乗るのが良い」
その言葉は、ユイの何かにズキズキと突き刺さった。自分でも驚くほど、嫌な気持ちになる。その理由はユイ自身にも分からないが。
(あ、あれ?拙者は……)
そんなユイと、席に戻った九条に、それぞれのクラスメイトが寄って行った。緊張の糸がほどけたように動き出した人々。
ある者は九条のところへ行き、
「よく言った。九条」
「俺たちも言ってやりたかったんだ」
「そもそもユイって戸鳴市から来てんだろ? 電車で通学しろっての。なぁ」
「え? あいつ自転車で家から来てんの? 駅からじゃなくて?」
「さすがに駅からだろ。電車に間に合わないから遅刻してんじゃねーの」
などと話している。一方のユイに近寄ったグループも、
「大丈夫だよ。ユイさんは悪くない」
「言いすぎだよね。九条」
「ちょっと顔が良いからって、あれは酷いと思う」
「ユイちゃん、新しい自転車買ったばかりなのにね」
と、口々に言う。こういう時、何かのルールがあるわけでもないのに、男子と女子のグループに分かれるのは不思議だ。九条の近くには白いワイシャツの集団が、ユイの周りには緑色の襟とスカートが特徴のセーラー服の一団が出来る。
「ところで九条。お前、こないだ原付の免許取ったんだろ?」
男子の一人が聞いた。
「ああ、昨日から乗って来てるよ」
どこか得意げに――何ならユイに対して何かあてつけるように、はっきり言う九条。それを見て、男子たちも盛り上がる。
「おお、すげーじゃん。今度見せてくれよ」
「どっか遠くに行ったりするの?かっけー」
「やっぱ原付だよな。ユイのママチャリとは違うって」
ワイワイと沸き立つ男子たち。その中のひとりが、そっと呟いた。
「まあ、同じママチャリでも、ユイみたいなとろい女子じゃなくて、『殺戮ベア』とかなら話は違うけどな」
「……何だそれ?」
九条が訊き返すと、彼は答えた。
「あ、九条は知らないのか。俺たちロードバイク乗りの間では有名な都市伝説なんだよ。サイクリングロードを走ってると、急にママチャリに乗った女子が猛スピードで走ってくるんだ」
「……それで?」
「ああ、そのあと何故か、追い抜かれた奴らは急に意識を失って倒れちまうんだってさ。で、みんな病院送りだよ。……まあ、作り話だと思うんだけどな。ママチャリのカゴにクマのぬいぐるみを入れているから、『殺戮ベア』なんだって」
「ふーん……」
特に興味もなさそうに、九条は返事をした。というより、聞き流したというのが正解だろう。
そのうち2限目が始まる鐘が鳴り、この話もお開きとなった。
放課後、ユイは掃除をしていた。
(むぅ……遅刻の罰が、掃除当番の手伝いとは……まあ、妥当かもしれぬが)
幸いにして、一人で全ての掃除をしろと言うわけではない。本来の掃除当番の生徒3名は、ユイと一緒だ。
ちょうどいい罰を与えることにより、九条のような生徒たちを納得させる。それと同時に、ユイの中にあるだろう罪悪感も払い去るという、平和な罰則であった。
机を後ろに寄せて、教室の前半分を掃除する。それが終われば、再び机を持って前へ寄せる……
カサッ――
「おっと」
その机を運ぼうとしたとき、中から何かが落ちた。
「これは、ノート?」
ユイが拾い上げる。それを見た他の生徒も、すぐに寄ってきた。
「忘れ物かな?」
「あ、九条君のだね」
「アイツ、もう帰ったよな。原チャリの免許取ったから、それで」
原付免許を取ったことは、九条自身も珍しく自慢していた。なので、クラスでも有名な話である。
「ふむ……」
落ちた拍子に開いてしまったノートを、そっと閉じるユイ。
「すまぬ。みんな、掃除を任せても構わぬでござるかな?」
と、ユイが言った。両手をパンと顔の前で合わせ、お願いのポーズ。
「まあ、もともと俺たちだけでやる予定だったところだけど」
「ど、どうしたの?」
「何か用事?」
そう聞くクラスメイトに、ノートを振って見せる。
「ちょっと、届けてやりたくなったのでござる」
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