第3話 伝説の自転車乗り 後編 【4083文字】
ここ数年ほど、とても暑い夏が続いている。その日差しは強く、ヘルメットの中は蒸れるほど暑い。
それでも、九条は上機嫌だった。頑張って中古で購入したスポーツタイプの原チャリは、たった50ccとは思えないほどの大きさを持っている。
これが、ぐんぐんと前に進んでいくのである。まるで鳥にでもなった気分だった。あるいは、子供の頃に憧れたヒーローのように。
(いい調子だ。楽しいぜ)
抱擁するように、オイルタンクに胸を押し付ける。空力抵抗を避ける姿勢だとか言われているが、それ以上に格好つけた乗り方だった。
憧れの車体と一体化したような幸福感。それは、夏の暑さを差し引いても嬉しい。
(このまま家に帰るのは、勿体ないな)
「……い、くじょ……」
(どこか、寄り道しようか。例えば、知らない道とか……)
「く、じょ、う、どのー!」
(そうだな。どこまでも、走って……)
「待ってほしいでござるよー。九条殿ー」
(……)
そっと上半身を起こして、ハンドルに取り付けられたサイドミラーを見る。
そこに映っていたのは、青いママチャリに乗ったユイだった。
「う、嘘だろ。学校出た時は、こいつ……」
確か、掃除をしていたはずである。自分の方が先に帰ったはずなのに、後ろから追い付いてきた。そういうことになるが……
(あり得ない。なんでママチャリなんかで、俺の原付に!?)
確かに法定速度を守り、信号に何度か引っかかってはいた九条だが、ここまでは一本道を最短距離で来ている。つまり、
(あいつのママチャリは、時速30キロを超えている……!?)
見たところ、本当に『ザ・ママチャリ』と言わんばかりの車両だ。
アップハンドルと呼ばれる、手前に曲がったハンドル。前にも後ろにもカゴがあり、その後ろカゴにはスクールバッグ。そして前には熊のぬいぐるみが入っている。
一応、6段の変速ギアは付いているといえ、それはスポーツバイクのような性能を発揮するものではなかった。そのはずなのに、
(なんで、追い付いてくるんだよ!?)
九条の知る限り、たまに原チャリを抜いていくロードバイクはいる。なので、自転車が意外と速い事は理解していた。
しかし、ママチャリとなれば話は別だ。あれはスポーツ用に開発されていない。
(いや、聞いたことがある。あの熊のぬいぐるみ、まさか……)
思い当たる節が、一つだけあった。
後ろから高速で追いついてくるママチャリの少女。追い抜かれると意識を失うという都市伝説――
「まさか、ユイがあの『殺戮ベア』なのか!!」
「うむ。その通りでござるよ」
いつの間にか、彼女は横に並んでいた。大胆不敵にも、九条の右側に、だ。
(な、なんで……なんで俺がその『殺戮ベア』に狙われるんだ?)
心当たりなど、あるとしたらあれしかない。
(ま、まさか遅刻を咎めたからか?)
その時、ユイになんと言ったか……
『それか、まあ……自転車を辞めるか、だな。もっと速い乗り物に乗るのが良い』
(あれか。あれを恨んで、自分の方が速いことを証明しに来た、ってのかよ!?)
九条の頬を、汗が伝う。気温の所為ではない。冷や汗だ。
「九条殿?」
「く、来るなー!」
九条が左足で、チェンジペダルを上げる。ギアを最高にして逃げるつもりだ。
意外にも、原付と言えど本気を出せば、時速50キロほどは出るものである。普段は法定速度でセーブしてあるが、その出力にはゆとりがある。
とっさに、右手でアクセルをひねっていた。九条の乗る原付が、加速する。
「うわぁぁあああ!」
殺戮ベアがどのようにしてすれ違った相手を倒すのか、それは分かっていない。ただ、追い抜かれた相手はみんな、病院送りにされたらしい。
(冗談じゃない。俺までやられてたまるか!)
メーターを見れば、もう45km/h(時速45キロ)を超えている。これなら自転車も追い付けないはずだ。
「ど、どうだ?」
「いやー、速いでござるな。拙者、びっくりしたでござる」
「……え?」
ユイは、それにぴったりとついてきていた。さすがに横並びではないが、後ろから煽るように接近する。
一歩間違えば追突する。そんな距離まで、彼女は詰めてきていた。この速度で、だ。
「じょ、冗談だろ」
「何がでござるか?」
すさまじいほどの高速回転で、ペダルを回す。そんなユイは、しかし表情も涼しそうで、疲れも見えない。
「信号、赤でござるよ」
「――っ!?」
ユイに言われて、前を向く。
確かに、目の前の信号は赤だった。自動車の交通量もそこそこある道だ。
(ど、どうするっ?)
信号を無視して突っ切ってしまうか、それともユイに捕まることも覚悟で止まるか。
車は隙間なく走っているわけではない。上手くやれば、タイミング次第では無事に抜けられる。
しかし、一歩間違えば大事故だ。
スッ――と、ユイが横にずれる。追突を避けるためだろう。つまり、追い抜く姿勢に入ったということだ。
(くそっ。俺は――)
キキーッ!
前輪ブレーキを握ったせいで、原付が前に少しだけ傾いた。そして、フロントサスペンションの力で後ろに戻される。
止まることを選んだ九条の横に、ぴったりとユイが並んだ。
「ふむ……原付とは、思ったよりも速い乗り物なのでござるな」
「こ、こっちのセリフだ。なんでママチャリであんなスピードが出るんだよ!?」
「あんなスピード?」
「45キロも出てたぞ」
九条に言われて、ユイはママチャリのハンドル付近を操作する。そこにはサイコン――要するにスピードメーターのようなものが付いていた。
「おお、本当でござるな。MAX46km/hでござる」
そんな速度を出したとは思えないほど、のんきな喋り方。スカートの折り目を直すだけの余裕さえ見せるユイに、九条は聞く。
「お前が殺戮ベア――それじゃあ、その自転車が伝説の改造ママチャリなのか?」
多くの自転車乗りを潰してきたという、いわくつきの自転車だと聞いていた。よもや自分もやられるのか。と九条は恐れる。
しかし、
「いや、この自転車はこないだ買ったばかりの新車でござるよ。改造ママチャリの方は、残念なことに壊れてしまったのでござる」
「え、そうなのか?」
「うむ。普通のママチャリでござる」
「じゃ、じゃあ、俺を殺さないのか?」
「む?」
ユイは首を傾げ、それから細い顎に手を当てて、ぶつくさと何かを呟く。きょろきょろと大きな瞳を斜め上や下に向けて、それから何度か瞬きすること10秒ほど――
「おお、そんな形で伝わっていたのでござるか!? それは誤解というやつでござる。噂に尾ひれも背びれも付き過ぎでござるよ」
と、驚いたように言うのであった。そのころころ変わる表情からは、一度も敵意のようなものを感じない。
「じゃ、じゃあ、なんで俺を追いかけてきたんだ?」
「ああ、それは忘れ物を届けに――」
言いかけた時、後ろからクラクションが鳴る。信号は青に変わっていたのに、いつまでも発進しない二人に対して、後ろのドライバーが苛立っていた。
「ここは迷惑になるでござるな。場所を移そう」
「あ、ああ」
歩道に入り、道の奥まったところに駐輪する。ここは歩道も狭いので、他の歩行者を邪魔しないように配慮を欠かさない。
「それで、このノートでござるが……」
「あ、俺のノート」
「やっぱり、忘れ物でござるな」
「ああ、すまない」
何の変哲もない大学ノート。それを九条は、割と大切そうに受け取った。
「な、中、見たか?」
「む、す、少しだけ、見てしまった。いや、見るつもりは無かったのでござるよ。落ちた時の不可抗力と言うか……すまぬ」
「いや、見られて困るものでもないけど、少し恥ずかしかったからさ」
ノートの表紙には、何も書かれていない。その中に書かれていたのは、バイクの事だった。
たくさんの中古ショップを回って、めぼしいバイクを片っ端から記録したり、
バイトの給料を計算して、目標金額までの道のりを書いたり、
免許試験の過去問を書き写していたり、
たまに気が乗ったのか、バイクの絵が描かれていたりもした。
このノートには、九条が今のバイクを手に入れるまでの努力と、ワクワクが詰まっている。ユイがどのページを見たのか知らないが、九条にしてみれば少し恥ずかしかった。
「むー。恥ずかしがることは無いと思うのでござるが?」
「え?」
「だって、バイクが好きな九条殿が、バイクについて書いた記録でござろう?」
トン、と、ユイは自転車のサドルに横から腰掛けた。両脚スタンドで垂直に立つママチャリは、真横から体重をかけられても、びくともしない。
すっと九条を見つめた彼女は、少し大きな声で言う。
「好きなことに夢中になる人は、素敵だと思うでござるよ」
ドキッとした――と同時に、嬉しい気持ちが込み上げる。
(ああ。そんな風に言ってくれた人、初めてだな)
バイク自体を褒められることはあっても、それに費やした時間や努力を褒められるなんて、九条にとっては願ってもみない事であった。
「では、拙者はこれにて失礼するでござる。バイトもあるのでな」
スタンドを蹴ったユイが、片足を上げて自転車に跨る。サドルの先にスカートを引っかけないように、そっと布地を押さえながら座った、その時だった。
「ま、待ってくれ」
九条が呼び止める。
「ふむ?」
「あ、あのっ……」
何か言いたいことがあったのだろう。しかし、なかなか話し出さない。ユイをまっすぐに見つめて、手を伸ばしたまま、固まってしまった。
「えっと、その……」
「ど、どうしたのでござるか?」
「……ごめん」
「?」
ユイが首をかしげると、九条の顔がみるみる赤くなる。眉をひそめた彼は、それでも視線をそらさず言った。
「だから、自転車。遅いとか、もっと速い乗り物に乗ったらいいとか、馬鹿にしてゴメン。俺、その……」
バイクに夢中な自分を、素敵だと言ってくれたユイ。それなら、自転車に本気で乗っているユイも、もちろん素敵だ。
そう言おうとした言葉は、引っかかって出なかった。プライドの問題とか、やっぱり男の方から女子にそんなことを言うのはためらうとか、いろいろな事情があって――
しかし、勇気を振り絞った彼は、ついに言うのだった。
「ユイのことが、好きだ」
「え?」
「あ、あれ?」
何か、決定的に間違った言い方で。
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