第1章『伝説の自転車乗りの日常』【26,570文字

第1話 伝説の少女 【1348文字】

彼女の胸は、まだペダルを漕ぐための鼓動だけを打ち鳴らす

彼女の手は、まだブレーキを引くためだけに握られる

彼女の唇は、まだ走るための吐息を紡ぐことだけ知っている

自転車はどこまでも、彼女を連れて行く

どこまでも、どこまでも、






 輪学市と戸成市を結ぶ、輪学サイクリングロード。全長30kmほどあるこの道は、近隣住民の自転車による移動にも、スポーツマンのトレーニングにも使われる。

 特に、地元のロードバイク乗りには人気のある道だった。自動車に邪魔されず、道幅を自由いっぱいに使える。それだけでも、サイクリストにとっては理想の場所だった。


 そんな道を、緑色のセーラー服を着た少女が走っていく。


 乗っている車体は、ピカピカのママチャリ。後ろにカゴを追加した以外に、特にこれと言って改造された形跡のない車体だ。

 その後ろカゴには、スクールバッグ。前カゴには、なぜかクマのぬいぐるみが入っている。


「ふーん、ふふーん」


 呑気に鼻歌を歌う少女。腰ほどまであるセミロングの茶髪をなびかせて、小柄な体を左右に振りながら、楽しそうに進んでいく。膝が出るくらいの長さのスカートから伸びる脚は、薄く筋肉を浮かべるものの、細く柔らかそうだった。

 その脚は、とりわけ高速回転を得意とする筋肉に覆われている。普段は柔らかいくせに、力を入れると盛り上がるタイプの筋肉だ。


 ぎゅあぁぁあああああ!!


 見た目の華奢な印象に反して、恐ろしいほどの高速回転をする両脚。それでも体幹が鍛えられているためか、上半身はまるでオートバイに乗っているかのように、一切ブレない。

 余計な肉がついてないせいだろう。不安になるほど細いお腹も、夏服の袖から伸びる二の腕も、まったく揺れず安定している。あえて言えば、薄いセーラーブラウス越しでも分かるほど立派な胸が、少し左右に振れる程度だ。


「今日は久しぶりに、早く起きることが出来たでござるな」


 まるでサムライかニンジャのような語尾をつけて、ユイは軽く呟いた。その(声質だけなら)可愛らしい声も、風の音に溶けて消えていく。


 前方に、ロードバイクが見える。早朝からサイクリングしていた人たちだ。全部で6人。会社の部活か、趣味で集まっているサークルか……

 ユイがそれを追い抜こうと、一気に加速する。まっすぐ並んだ6人、ごぼう抜きだ。


「やあ、ユイちゃん。朝から飛ばすねー」


 先頭の男性が、ユイに話しかけた。ユイは減速して横に並ぶ。


「おお、先週のお兄さんではござらぬか。あの後、脚は大丈夫だったでござるか?」


「いやー、参ったよ。ちょっと休んだら治ったけどね。ユイちゃんが手当てしてくれたおかげさ」


「構わぬよ。元はと言えば、拙者のイタズラが過ぎたせいでござるからな」


 にこやかに笑うユイ。この時、時速30キロほど出ていることを除けば、いたってほのぼのとした会話だっただろう。


「あ、それじゃあ、拙者は学校に行かねばならぬゆえ、これにて」


「ああ、そうだね。ごめんね」




 ユイが去った後、その会話を聞きながら後ろを走っていた一人が、先頭の男に聞いた。


「先輩。あの女子高生、誰っすか?」


「ああ、あれは……そうだな。ユイちゃんって言って――」


 どう答えようか迷った男性は、とりあえず彼女の喋り方とか、あるいは自転車の速さとかを抜きにして、結局こう答えた。


「優しい女の子だよ」

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