第3章『使い方ひとつで』【13,587文字】

第26話 忍び寄る影 【4737文字】

 さすがに、日曜日は比較的早く帰れる。もっとも、朝から出勤していたのだから当然と言えば当然だ。


「お先に失礼つかまつる」


 と、ユイが言うのも、この日くらいだった。


「私もお先に失礼します。店長」


「はーい。ユイちゃんもルリちゃんもお疲れ様ねー」


 店長に手を振って見送られ、二人はタイムカードを切る。そうして外に出てみれば、まだ日は高く、明るかった。


「ユイ。帰りは気を付けてくださいね。最近は変質者も多いみたいですから」


「むー、ルリ姉まで拙者を変質者扱いでござるか?」


 先日、学校でからかわれたことを思い出すユイ。なんでも、自転車で時速50キロをたたき出すセーラー服の変質者がいるとか何とか、


「いえ、その件は知りません。私が心配しているのは、自転車を使った痴漢の方です」


「おお、それも聞いたでござる。すれ違いざまにわいせつな行為をする輩がいるとかいう奴でござるな。拙者がやられるはずはないでござるよ」


 ユイが自信満々に言う。それだけ、自転車勝負なら自信があるという事だろう。ストリートでもレースでも、追い付かれなければどうということは無い。そういう考え方だ。


「まあ、相手がどういった手口を使うかまでは、私も知りません。大学の掲示板で見かけただけですからね」


 そう言ったルリは、そっと上を見上げた。店の裏のスタッフ用駐輪所から見て、道路は一段高くなっている。そのガードレールの上に、一人の男子大学生が立っていた。


「ルリー。終わったかー」


 その男子には、ユイも見覚えがあった。


「アキラ殿」


「おお、ユイもいたのか。久しぶりだな」


「うむ。お主も元気そうでよかったでござる」


 アキラと呼ばれた男は、さわやかな笑顔を振りまいて、クロスバイクに跨り直した。


「ところで、何でアキラ殿が?」


「ああ、ルリを迎えに来たんだよ。最近、物騒だからな。送り迎えでも――」


「という口実の、デートです」


 ルリにあっさりと計画をばらされたアキラは、一瞬だけクロスバイクからずり落ちそうになる……のを、きちんと立て直した。完全停止した状態でも、足を着かずにその場に止まる技――スタンディングスティルを使う。ユイが彼に教えた技だ。


「ルリ。それをバラすなよ」


「すぐに認めるアキラ様もどうかと思いますが、私としては面白かったので満足です」


 言葉とは裏腹に、何を考えているか分からない無表情のルリ。彼女もまた、新車のロードバイクに跨る。ルリのイメージにぴたりと合った、硬派で細身の青い車体だ。


「それでは、私はもう行きますね。デートに」


「何度も言うなーでござる!」


 そっと消えていく二人を見送ったユイは、ため息をつきながら自分の自転車を確認した。もしかして悪戯などされていたら冗談では済まない。最悪の場合は命に係わる。




 あくまで簡易的な点検だ。まずはハンドルとサドルに汚れが無い事を確認。それから跨って、ゆっくりとハンドルやサドルに体重をかけていく。これによってタイヤの空気圧と、各部のねじ止めの硬さを確認。


(よし)


 つづいて、ブレーキレバーを握り込む。ユイの趣味により、もともと付いていたプラスチック製ではなく、ステンレス製に変更されたレバー。それも順番にしっかり握り込んで、すり減りや緩みが無いことを確認する。


(こっちも、よし)


 あとは走り始めて、普通に変速ギアを一段ずつ上げていく。最大まで上げたら、今度は一段ずつ下げる。これも正常に機能すれば、簡易点検完了だ。別に道具や時間が無くても、この程度の点検で避けられる危険は多い。


(思い起こせば、今まで拙者も、いろんな悪戯を受けてきたでござるからなぁ)


 この車体に乗ってからの話ではなく、ユイの10年余りにわたる自転車歴の中での話になる。

 例えばバルブを外されて、タイヤの空気を抜かれたことは何度かあった。あれは道具を一切使わず、手でネジを回すだけで実行されてしまう地味な嫌がらせだ。そのまま乗ると、今度こそチューブに穴が開いて使い物にならなくなる。

 チェーンを外されていたこともあった。サドルが抜かれて、なぜか代わりにブロッコリーが刺さっていたこともある。なのでユイは今、サドルをフレーム本体から持っていけなくするための専用ワイヤーロックをつけている。

 ブレーキのケーブルを外され、ブレーキが作動しないようにされたこともあった。あれだけは本当に許せなかった、悪戯の範疇を超えた所業である。

 逆に許すしかなかったのは、サドルに鳥の糞が付いていた時。こればかりは怒っても仕方がない。


(そう言えば、先日はサドルにイカのすり身みたいなのが乗ってたでござるな。妙にぬるぬるして生臭かったでござるが、あれはどのような趣向の悪戯だったのでござろうか……)


 と、おそらく男子にでも聞いたら意図がすぐに判明しそうな謎もあった。


(ま、いいでござるけど)


 知らないことに関しては大雑把なユイは、特に気にせず帰路に就く。彼女にとって、今話題の痴漢騒ぎなど、どこか遠い話だったのだ。






 だからこそ、次の日の朝、


「イア殿……」


 学校に行ったとき、親友であるイアを見たユイは、二度三度と驚いた。まず一度目は、彼女が腕にギプスを巻いていたこと。さすがに肩から吊ってはいないが、半そでの季節にそれは非常に目立った。


「あ、えっと、ユイちゃん。えへへー、ちょっと転んじゃってさ」


「自転車で、でござるか?」


「うん。金曜日に、学校帰りにね。あ、手首の近くが欠けちゃっただけだから、別に大きな骨折じゃないんだよ。利き手じゃなくて良かったけど、しばらく自転車には乗れないねー」


「……そういう時はじたばたするより、ハンドルを握ったままでいた方が、案外無事で済むものでござるよ。ところで、どうして転んだのでござるか?」


 ユイが知る限り、彼女はそう簡単に何もないところで操作ミスをするような危なっかしい乗り手ではない。こないだ海に行った時だって、彼女の走りは安定していた。


「そ、それが。ね……」


「む?」


 イア本人は、そこで言葉を区切って、身を縮めてしまった。目立った外傷は手首だけのように見えたのだが、どうもそれだけでは済まなかったらしい。

 と、いう話はホームルームに中断され、その後は聞く機会を失ってしまい、

 結局ユイは、後ほど真相をアミとカオリから聞くことになってしまった。




「痴漢、でござるか!?」


「しーっ、声がデカいんだよユイ」


「私たちも、誰にも言わないって約束で話してもらったのよ。ユイも誰かに言ったりしないでね。まして大声は控えてくれるかしら?」


 聞く話によれば、イアは金曜日の帰宅途中に、後ろから追い抜きをかけてきた自転車に胸を触られたのだそうだ。それで驚き、相手の手を振り払おうとしてハンドルを誤ったらしい。


「……本人は、『もしかしたら痴漢じゃなくて、手が当たっちゃっただけかも』とか寝言ぬかしてたけどな」


 アミが頭の後ろで手を組み、片足の裏と背中を壁につけて寄り掛かる。彼女の上履きが、廊下の壁とぶつかって大きめの音を立てた。やや苛立っている時のアミだ。


「私は自転車に乗らないから分からないのだけど、そんなに偶然で手が当たるものなのかしら?」


 と、カオリも両手を前で重ね、切れかかった蛍光灯を見上げる。もちろん蛍光灯に問いかけているのではなく、この中では自転車に一番詳しい人物に質問しているのだ。

 本職の意見を述べるなら、


「あり得ぬよ。まず手を伸ばせば届く位置までの接近は、普通の人からすると恐怖を感じるはずでござる。仮に手と手ならまだしも、胴体まで触れるほどとなると衝突する10センチ手前でござろう」


「レーサーとか、競技選手なら?」


「それなら特殊な訓練を受けているでござろうから、難なく接近自体は可能でござろう。しかしイア殿は走行中だったのでござろう? そのハンドルを持つ二の腕を避けて、胸へと手を伸ばす……偶然ではあり得ぬよ」


「つまり、犯人はよほど訓練された自転車乗りで……」


「なおかつ、そういうことを好む野郎ってことだな」


「うむ」


 ユイの中に、何とも形容のしがたい感情が渦巻き始める。あまりいい感情ではない。

 しかし、3人で仏頂面を並べても仕方がないというものだ。話はそこからカオリの送迎車の話になり、一般的なタクシーとハイヤーの違いに移り、アミも疲れたらタクシーで帰りたいなどと言い出したころには、休み時間も終わってしまったが。




 放課後――


「それじゃ、ユイも気を付けてね」


「う、うむ」


 見た感じ普通のワゴン車のスライドドアに、カオリがするりと入り込んでいく。それを見届けた運転手は、ドアをそっと閉めると、ユイに一礼した。礼儀正しい老紳士である。


(てっきり、りむじんとかいう長い車かと思ったのでござるが、存外普通でござったな)


 勝手に期待して勝手にがっかりしたユイは、自分の自転車をとるため、駐輪所へと向かった。その途中、ぴゅーっ! と口笛のようなものが鳴る。


「よーう。そこの可愛いお嬢さーん、乗ってくかーい?」


「乗らぬでござるよ。よじろー殿」


 相変わらず下手なナンパ師のようにチャラついているのは、与次郎だった。学校まで自動車通学している生徒が何人かいるとは聞いていたが、彼もついにその立場になったらしい。


「つれないねー。っていうか、ユイちゃんが駐車場にいるなんて珍しいじゃん。今日はご両親がお迎えかなー?」


「いや。カオリ殿の乗るハイヤーとやらを見に来ただけでござる。もう戻るでござるよ」


「ハイヤー? リムジンみたいなやつかい? ぼくは見かけなかったなぁ」


「……りむじんではござらんかったよ」


 先ほどの自分の考えが与次郎と同レベルであると知り、ユイはひそかに歯噛みする。普通に馬鹿にされるならともかく、与次郎と同レベルというのが気に入らないのだ。なんとなく、だが。


「聞いたよ。イアちゃんが怪我した原因」


 与次郎が、そっとそう告げた。それを聞き逃さなかったユイは、再び彼に向き直る。


「……おぬし、それをどこで?」


「学校中の噂さ。痴漢にやられたってね。ちなみに、伝言ゲームみたいに伝わってるから、ぼくも何パターンかの話を聞いてるよー。どれが本当なの?」


「教えぬよ。というか、『秘密だから誰にも教えるな』と言われたでござる」


「いやいや、それって一番広がるやつだから」


「……」


 たしかに、伝言ゲームのように広がるのも無理はない。


「……だとしても、拙者は心配ご無用でござるよ。自転車なら最速。それはよじろー殿もしっていよう」


「あれ? イアちゃんの時は、すれ違いざまにオートバイで、スカートの中の写真を撮られて転んだんじゃないの?」


「そんな尾ひれが付いて回ってるのでござるか!?」


「うん。あとはパンチラ目当てで道路に油をまかれたとか、すれ違いざまに水をかけられて転んだとかいう話も聞いているけど?」


「うーむ……この『誰にも内緒』とは、存外なんの役にも立たぬのでござるな」


 ユイが顎に手を当てて唸る。こんなことになるなら、いっそ正確な情報が出回ってほしかったくらいである。なまじ『イアが被害者』と個人名だけは出回ってしまっているのだから質の悪い風評被害だ。


「まー、ぼくとしては、イアちゃんも心配なんだけどさ。それ以上に心配なのが、ユイちゃんってわけだよー」


「なんで拙者が?」


「んー? 幼馴染だしー」


「ああ、そうでござったな」


 納得するユイに、なんとなくだが安心と、ほんの少しの期待外れを込めた視線を送る与次郎。じとー。


「まあ、いいや。バイト頑張ってねー」


「うむ。よじろー殿も交通事故に気を付けるでござるよ」


 と、適当に返事をして、与次郎に手を振る。彼はクラクションをあいさつ代わりにポンと鳴らすと、そのまま軽快に走り去っていった。


(まあ、拙者は本日、バイト休みなのでござるけどな)


 わざわざ伝える必要もない情報である。

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