第16話 意外な事情 【3097文字】
自然の波とは、不思議なものである。人間の意思が介在していないのに、なぜか一定のリズムがあるように感じてしまう。しかしそれは不規則に、ユイの乗る浮き輪を揺らす。時に大きく、時には小さく。
「ユイちゃん。頑張ってー」
「良い調子よ」
「震えてんぞ。ユイ」
「そ、そんなこと言われても……わぁっぷ!?」
ざばーん!
イルカなのかシャチなのか、あるいはクジラなのか――そんな形をした浮き輪が、横にひっくり返った。
急に、息が出来なくなる。水の中なのだから当然だろう。水底に足をついたユイは、勢いよく水面に顔を出した。
「ぷはぁっ!」
一瞬とはいえ音を遮蔽された耳に、再び空気が戻ってくる。みんなの声が左耳から聞こえてきた。右耳には水が入ったらしい。
「ほんっとにバランス感覚が悪いなー。ユイちゃん」
けらけらと笑う与次郎。
「むーっ。拙者、バランス感覚は悪くないでござる。自転車なら……自転車なら、止まったまま両手を放しても転ばないでござるよ」
「いや、それ足ついて立ってるだけじゃないの?」
「ちゃんと足をペダルに乗せたままでござるよ。そのくらいバランス感覚には自信があるでござる……けど」
イルカ(?)の横についているハンドルを持って、手繰り寄せるユイ。これが意外と乗りづらいのだ。
「あはははー。多分、力が入りすぎているんじゃないかな。波を抑え込むんじゃなくて、流されるつもりで乗ったら良いと思う」
「む? そこまで言うなら、イア殿も乗ってみるでござるよ」
「いいよ」
軽く承諾したイアは、自分の胸の高さ当たりで浮いているイルカのハンドルに手をかけた。ぷかーっと身体を浮かせると、本体に脚をかけて乗っていく。
とても綺麗な乗り方だった。背びれの横に顔を押し付け、うつ伏せに寝そべるイア。そのまま軽くバタ足すると、イルカが少しずつ進んでいく。心なしかそのイルカの顔さえ喜んでいるように見えた。
「ふむ……アミ殿。カオリ殿。ついでによじろー殿」
「いいわよ」
「おっけい!」
「ついでかーい」
「え? え?」
その優雅に泳ぐシャチの、なぜか左サイドにだけ集まる3人。
「「「せーの」」」
「それは反則じゃながぼぼぼぼ!?」
強制的にひっくり返されたイアは、なすすべもなく大股開きで沈んでいった。ついでに、その左足が与次郎の顔をクリーンヒットし、水中へと道連れにしたという些細な問題もあったが、誰も気にしない。
「――とっくに昼過ぎでござるな」
ユイが海から上がりながら、ダイバーズウォッチに目を落とした。
「まさか、このシャチでこんなに時間を忘れるほど遊べるなんてねー」
「む? よじろー殿。これはシャチだったのでござるか?」
「うん。何だと思ってたのー?」
「……てっきり、イルカだとばかり思ってござった」
照りつける日差しが、肌をみるみる乾かしていくのが分かる。砂浜も焼けるように熱い。イアやカオリのようにサンダルを持ってくるべきだったかと、ユイは少し後悔した。
「カオリ。本当に大丈夫か?」
「大丈夫よアミ。ちょっと疲れただけ」
「肩、貸そうか?」
「……ええ、それじゃあお言葉に甘えて」
もともと身体が弱いカオリは、少し顔色が悪かった。今朝は調子が良いと言っていたが、はしゃぎ過ぎたのかもしれない。
「昼飯も兼ねて、休憩するか。カオリ、食える?」
「ええ。不思議と、何か食べたい気持ちはあるわね。あんまり歩きたくないけど」
そんな二人の会話を聞いて、与次郎は額に手をかざした。
「確か、あっちの方に屋台があったはずだよねー。ぼくが何か買ってこようか?」
「いや、拙者が行こう。よじろー殿はアミ殿と一緒に、カオリ殿に付き添っててほしいでござる。何かあったときに車を出せる者がいた方がよい」
「それじゃ、私もユイちゃんと一緒に行くよ」
買い出し班の、ユイとイア。
待機班の、与次郎とカオリとアミ。
見事に役割が分かれてしまった。
拠点として立てたビーチパラソルや、折り畳み式のテーブルと椅子。それらはユイと与次郎が設置したそのままの姿で、そこにずっと残っていた。
「本当に、日本は治安が良いのね。普通こんな無防備に物を置いてたら、数分で消失するわよ」
「そうなの? アタシ海外とかよく分かんねーけど、そんなに怖いんだ」
カオリを日陰に座らせ、アミもその隣に座る。
「さすがに現金とかは放置できないけどねー。……って、そういや買い出しに行ったユイちゃんたち、お金持ってんのかなー」
と、与次郎が呟いた瞬間、場の空気が凍り付いた。
「さ、さすがにユイも、そこまで間抜けじゃねーだろ」
「アミの言う通りよ。それにイアも付いてるんだから、きっと大丈夫じゃないかしら?」
「そ、そーだよねー。ぼくの考えすぎだったよー」
そう言って、ようやく与次郎も椅子に腰を下ろした。
「ところで、午後からはどうするの?」
「え?」
カオリに訊かれて、与次郎は目を見開く。
「……え? じゃないわよ。ユイちゃんに告白するんなら、良い感じに二人きりにしてもいいわよ。――というより、さっきこそ与次郎君とユイちゃんで買い出しに行って来れば良かったのに」
それを聞いて、アミはハッとした。
「まさか、カオリ。さっきまで調子が悪いと見せかけていたのは――」
「半分ほど演技よ。半分は本気だけど」
「マジか。見抜けなかった」
アミがぱたぱたと足をばたつかせる横で、カオリは得意げに頬杖をついた。
「与次郎君。私たちは貴方を応援するつもりで、ここに来ているわ。半分はね」
「も、もう半分は?」
「フラれた貴方を
「酷くない!?」
表情一つ変えずにけろっと言い放ったカオリに、冗談のつもりはないらしい。
「せっかくだから、いきなり押し倒しちゃうとかでもいいんじゃないかしら。ユイちゃんって男性に興味なさそうだけど、意外と押しに弱いわよ」
これまた、冗談に聞こえないトーンで言うカオリ。だが……
「いやー、あはは。それはどうなんだろう?」
与次郎は、そう言って笑った。まるで冗談のように。
「ここまできて怖気づいたの?」
「いやいや。ぼくは怖気づいてなんかないよー。……でもさー。急に押し倒すとか、それで嫌がられなかったらOKとか、そういうのは違うと思うんだー」
「……」
今度は、カオリが驚く番だった。正直に言えば、彼にそんな真面目で誠実なイメージなど無かったのである。いや、悪い奴でないことくらいは知っていたが、
「そうだな。よく言ったよ与次郎。それでこそ男だぜ。正面から告白してフラれてこい!」
「ありがとーアミちゃん。でも最後の一言は余計じゃないかなー」
楽しそうに盛り上がる二人を見て、カオリは小さく「ふっ」と笑った。
(本当に、日本は治安が良いのね)
一方、ユイとイアは屋台までやってきていた。真っ白な砂浜の上にポツンと出現するそれは、場違いにも見えるし、風物詩のようにも見える。
もっとも、海水浴シーズンもこれからが真っ盛りと言ったところで、まだそんなに客も多くない時期だ。こうして遊んでいるユイたちも、これまた場違いな風物詩でもあった。
「うーむ、その場のノリと勢いで出てきたは良いものの、みんなに食べたいものを聞くのを忘れてしまうとは、不覚でござる」
「あははー。ま、まあノリノリだったもんねー。仕方が無いから、適当に買ってく?」
「さすがに手ぶらで戻るのも忍びないし、かといってスマホも無いでござるからな……ん?」
ぼんやり眺めた屋台……その奥に、ユイは見慣れた人物の顔を発見するのだった。
重たい印象のおかっぱ頭に、カッコつけたつもりなのか斜めに切った前髪。そして、1ミリも似合ってないエプロン。
「――九条殿?」
「え?」
イアも、その目線を追う。彼も、こちらに気づいた。
「ユイ?――それに、イアも……」
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