第43話 練習開始(後編) 【3743文字】
本来ならここは、カオリのようなお嬢様が、日傘でも差しながら優雅に散歩するコースだったのだろう。ママチャリに乗ったユイは、すさまじい速度で走っていく。
(石畳と言っても、そんなに振動は感じないでござるな。手入れが行き届いているようでござる)
道路によくあるタイルの道が走りにくいのは、下から木の根が持ち上げてしまっていたり、下の地盤が歪んでしまったりすることに起因する。緑川邸の庭は、そういった状態ではなかった。仮にスケートボードでも突っかからずに走れるだろうほど綺麗だ。
ゴロゴロと大きなノイズを立てて、池にかかるアーチを超える。そこから左に曲がって、木の枝の隙間をかいくぐっていくと、花畑を両方に眺めながらの道。
(景色もきれいでござるけど……拙者が手を抜くとチーム全体の士気が下がるでござるよなぁ)
練習が終わったら、ゆっくり散歩でもさせてもらおう。そう考えたユイは、ひとまず自分の周回を終えるために速度を上げる。赤いレンガの壁が、視界を高速で流れていく。
「お、戻ってきたな」
アミが手を振って出迎えてくれた。バトンタッチだ。
「アミ殿。行けるでござるか?」
「もちろん!」
自転車に跨ったアミは、ぐっと親指を立てて答えた。が、その後ハンドルを握ると、小さく言う。
「でも、そろそろ集中力も切れてきたな。アタシが走り終わったら、ちょっと反省会を兼ねて休憩入れるか」
「そうでござるな」
ユイは時計を持っていないし、スマホも今は遠くにあるので時間が分からない。なのでママチャリに付いているサイコンを見た。自転車用のスピードメーターのようなものなのだが、時間も確認できる。
もう15時だ。4人で交代しながら練習しているとはいえ、かれこれ1時間以上も走っている。
「じゃ、最後の1周、行ってくるぜ」
アミが走り出した。その背を見送ったユイは、イアのいるパラソルの下へと移動する。
「お疲れ様。ユイちゃん、いつもより疲れてる?」
「うむ。だらだらと1時間くらい普通に走るのと、タイムを気にしながら自分の限界に挑戦するのとは、体力の消耗が違うでござるな」
イアが差し出してくれた麦茶を、ユイがぐいっと一気飲みした。ぶわっと汗が噴き出してくるのが、自分でも分かる。
「えっと、九条君がコントロール型で、与次郎君がパワー型だったよね。それじゃあ、アミちゃんはどうなの?」
イアがタイムを記録したノートを見ながら訊いてきた。アミのタイムは安定していて、常にチーム内では最下位となっている。
「うむ。アミ殿は……まあ、安定しているでござる。総合的に一番の選手でござるよ」
「え? そうなの?」
「フォームに改善の余地はあるでござるけどな。どんな姿勢でも走れるだけの基礎体力と、充分な筋力を持っているでござる。そして、誰よりも集中力を大切にしている様子でござった」
だからこそ、先ほども『集中力が切れてきた』という理由で休憩を申し出たのだろう。彼女は水泳部の部長をしながら、陸上部も掛け持ちする実力者だ。練習に『良い練習』と『悪い練習』があることを、ユイより誰よりよく知っている。
「あ、戻って来た。タイムは……3分45秒だね」
ストップウォッチを押したイアが、その記録をノートに記した。
「あー、またアタシが最下位かぁ」
休憩時間がやってきて、みんなは冷房の効いた室内へと避難した。アミもその汗だくの格好で戻ってきて、タオルで身体を拭いている。
「まあ、仕方ないんじゃないか。そもそも女子が男子に勝とうって考え方が間違ってるわけだし」
九条が言う。すると、アミはぴたりと動きを止めた。
「……どうした?」
「いや、その、九条、さ」
「ん?」
「アタシは――」
黒いライダースーツで涼しげな顔をする九条と、セパレートタイプの陸上ユニフォームで暑そうに汗をかくアミ。その二人の間に、見た目の季節感よりもずっと大きな温度差を感じる。
「……」
しばらく九条を見ていたアミだったが、言いたいことがまとまらなかったのだろう。口をパクパクさせるだけに終わった。
「あー、そうだよな。アタシ女子だったわ」
「は? そりゃそうだろ。何を言っているんだお前は?」
「そうだよなー。あははー」
ぺかーっと笑ったアミは、頭の後ろで手を組んだ。
「あ、アタシちょっとトイレ行ってくるぜ」
ズバッと言い残して、くるりとターン。そのまま扉の向こうに消えるまで、本当に無駄のない最速での移動だった。
「……よほど我慢してたのかもな」
「うーん……どうだろう? おなか出してたから、冷房で冷えたのかも」
「っていうか、あっちのトイレはここからだと遠いんだけど、教えてあげればよかったかしら?」
九条とイア、そしてカオリも顔を見合わせる。そんな中、与次郎も席を立った。
「ちょっとぼくもトイレー」
「犯罪だぞ」
「違うよー!? なんでぼくが覗きにいく前提なんだよー!!」
九条の頭を軽く叩いて、与次郎はさっさと歩いて行ってしまう。
「あ、だからそっちのトイレより近いトイレがあるって――聞いてないわね」
立ち上がりかけたカオリが、諦めて座り直す。
「んー」
ユイはその間ずっと、イアが記録してくれていたノートを眺めていた。
「どうしたの? ユイちゃん」
「いやー……九条殿が言っていた『女子は男子に勝てない』という話でござるが、そうでもなさそうでござるよ」
「いや、ユイ。お前は規格外だ」
「拙者だって女子でござるよ!? って、そんな話はさておき、でござる」
自転車においては自分が女子扱いされない事くらい、ユイはよく分かっていた。それよりも、とノートを広げて見せる。
「この記録、アミ殿がずっと最下位なのは見ての通りなのでござるが、注目してほしいのはタイムの変化でござる。アミ殿は何周走っても、あまりタイムが変わってないのでござる」
「そうだな」
「それに比べて、他の3人は疲れが出ているのか、4周目あたりから記録が落ちているでござる。九条殿も、よじろー殿も、それから拙者でさえも――」
与次郎がやや小走りにトイレに向かうと、意外と簡単にアミに追い付いた。
「やー、アミちゃん」
「何だよ。覗きか?」
「違うよー。ぼくはどんなキャラだと思われてんのさー」
振り返らないアミの短い髪が、風に小さく揺れる。廊下も換気しているようだ。
「あのさ。えーっとー……あ、九条っちのこと。あれさ。アイツなりに励ましただけだから、言い方がアレだったけど、あんまり気にしないで。九条っち不器用だから」
「そんなこと言いに来たのかよ」
「うん」
「……」
与次郎は少しだけ、しくじったというような表情を見せた。どもるように、アミに声をかける。
「いやー、ぼくも趣味で身体を鍛えたりしているけどさ。それでもユイちゃんには全然勝てないし……いや、そんな話じゃないや。えっと、アミちゃんが普段から頑張ってるのも、何となく分かるからさー。えっと……」
アミが立ち止まってくれている。その間に、何か言わなくては――
いろいろと考えた与次郎は、あえて気を使わないことにした。遠回しな話なんかしないことにした。
「アミちゃん、落ち込んでないかな。って思ってさー」
「……そっか」
「うん」
与次郎は、実は今回のレースをとても楽しみにしていた。いや、もちろん与次郎以外も真剣だが、与次郎は『真剣に』というより、『楽しみに』という形で、誰よりもこのチームを大切にしていたのだ。
今でこそ軟派な行動が目立つ彼だが、もともとは口下手で、孤立しがちな少年だった。
考えてみれば、自分から声をかけるのではなく、誰かに声をかけられて誘ってもらえるなんて、それは初めての経験だったのだ。
だから――
「こんなこと言うと、遊び気分みたいに聞こえるかもしれないけどさー。せっかくみんなが集まってるのに、ちょっとした一言で誰かが傷ついたりするの、嫌だからさ」
そう言った与次郎に、アミは振り返って歩み寄った。こうして並ぶと、アミの方が少し背が高い。男子にしては小柄な与次郎の頭に、女子としては大柄なアミがそっと手を伸ばす。
「アミちゃん?」
ビシッ!
「痛っ!?――? ? ……え?」
唐突なデコピンを食らった与次郎は、そもそも何が起きたのか分からず困惑した。
「あっはははははははははははっ。似合わねー。お前そんなキャラかよ。ヨジロー」
「な、あれ?」
思いっきり笑ったアミは、お腹を抱えて身体を震わせる。その笑い声はだんだん苦しそうな呼吸音に変わり、また笑い声に戻った。よほど面白かったらしい。
涙をリストバンドで拭いながら顔を上げた彼女は、真っ赤になった顔をにやけさせて、与次郎を見る。
「お前さ。やっぱ女にはモテないわ」
「なんでー!? なんで今ぼくがディスられたの!? ねー!!」
驚く与次郎を見ながら、アミは腰に手を当てて胸を張る。
「ま、九条が口下手なのは知ってるよ。アタシだっていちいちそんなこと気にしてねーって。女子だとか男子だとか関係ない。後半戦では二人ともぶっとばしてやる」
「そ、その意気だよー。……え? 二人? あれ、ぼくもー?」
「ああ、なんならユイもそこに含めてやるよ」
「それ世界チャンピオンクラスだって!」
ぐーんと伸びをしたアミは、与次郎の横をすり抜けて、今来た廊下を戻っていく。そのすれ違いざま、とても小声ではあったが、
「ありがとう」
そう言ったのを、与次郎は聞き逃さなかった。
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