第5章 二人の答え

20.笑えるベンチ

 博物館を出発してからというもの、会話はするものの長続きのしないことしないこと。夏の痛いほどの暑さが人間から体力を奪い、やる気を奪い、そして言葉を奪う。汗が止まることはなく、ぬぐってもぬぐっても次々と噴き出てくる。人の体の半分以上は水分で構成されていることを嫌でも実感してしまうほどの汗の量。衣服が肌に張り付く独特の不快さもおまけに味わうこととなった。


 それは昨日セント・エビリオンをさまよっていた水奈とまさしく同じ状態だった。ただし、そこには大きな違いがある。それは飲料水が手元にあること、そして何よりも、隣に仲間がいることだった。


 寿美香は何も言わないが、水奈にはとても感謝をしていた。行動力のある彼女でさえ、この暑さとこの町の人たちの秘密主義と結束の強さには参っていたから。水奈にブドウを見つけると宣言したこと、これが終わったら水奈を日本へ連れて帰ると約束したこと、この二つの決意があったからこそ今も頑張れている。もし水奈と出会わなければ寿美香は生まれて初めて諦めるという選択をしたことだろう。


 そして、とうとう会話も無くなった頃。


 ペットボトルの水が半分に減ったところで、ついに我慢できなくなった水奈は、目線を前に向けたまま寿美香にそっとささやいた。

「見られてる」

「知ってるわよ」

寿美香がだるそうに同意した。


 水奈の言うとおり、町の人たちが二人を凝視していた。ホテルを出てからずっとのことである。暑さで思考力が低下しているにもかかわらずはっきりと分かる強い視線。ここから出ていけと言われている気がしてならなかった。


 ここに来たばかりの頃も視線を集めていた二人だったが、その時は異国のものに対する物珍しさからくる注目であったはずだ。しかし、先ほどから感じるこの視線はあきらかに毛色が違う。二人の姿を見た途端動きを止め、目だけを横に動かし二人の後を追う。大人から子供まで例外無くである。しかもそこまで露骨な反応を見せるものの誰一人として話しかけてくる者はいなかった。


 二人は無言の不気味さを感じながらもただひたすら歩く。それは市役所の時と似たような感覚だった。水奈は気にしない気にしないと意識しながらも、ついキョロキョロと見回してしまうし、寿美香は寿美香で失礼なやつらとぷんぷん怒っていた。


 時間をたっぷりとかけて町の端までやって来た。


 教会を中心に八つの地区に分かれたセント・エビリオンには、その地区ごとに外へとつながる出入口が設けられている。その出入口の一つが、今二人の目の前に現れた。城壁にぽっかりと空いたアーチ状の穴。水奈はそれに見覚えがあった。

「私が通った入口! 間違いないよ」

「水奈と出会った場所から一番近い入口を選んだの。正解だったわ」


 二人はアーチをくぐり抜け、ブドウ畑へと向かう。しばらく一本道を歩いていくと例のベンチが見えた。


「ここだよ寿美香。ここで昨日目が覚めたの」

「ってことは、ここで水奈は寝かされてたのよね?」

「そうだよ」

「ぷっ…………あっははは!」

寿美香が突然お腹を抱えて笑い出した。

「水奈のお父さん、さいこー、あははっ! 普通女の子を、こんなとこに、置いとか、ないわよ」

一応笑いをこらえる努力をしつつ率直な感想を述べる。

「カフェの時もさんざん笑ったじゃないかー」

自分の家、というよりも自分の親が一般家庭の親と比べて明らかに変わっていることは改めて十分に理解したのでそろそろ笑われることにうんざりしてきた水奈だった。

「あー、ごめん、馬鹿にしてるわけじゃないの。あたしの親とあまりにも違うものだから。おかしくって」

「非常識な親だもの」

「うーうん、違う。あたしの両親もね子どもの将来を自分たちで設定してしまうような勝手な人たちだから。だけど水奈の両親は、こう、なんていうか、……縛っているようで実は放任主義? そこがツボなの。矛盾していて面白い。フォローするわけではないけれど、外国に行って来いだなんて言う親、正直羨ましいわ」

 冗談でしょと驚き、水奈は寿美香の顔を見ると、彼女の目は真剣であることが分かった。

「あたしなら逆にこっちからお願いしちゃうかも」


 自分よりもよっぽど火向井家の人間だと水奈は思った。そして彼女と自分の父親を会わせてはいけないとも思った。意気投合して何を企てるか分かったものではない。水奈も巻き込みきっとろくでもないことを計画するに違いない。

 日本に帰っても寿美香を紹介するのはやめよう。お世話にはなっているけども。水奈はそう密かに一人決意する。


 一方、寿美香も、市役所での水奈の大胆な作戦を思い出し、しっかり親に似ているじゃないという言葉を飲み込むのだった。


「ところでおじいさんは?」

 寿美香はおでこに手を当てて遠くに目を凝らす。

「ブドウ畑のどこかにいるんだろうけど。これだけ広くちゃ難しいね」

「噂のブドウの木より見つけるのは簡単でしょ。はい、それじゃ水奈は左の畑を見ていって。あたしは右を見るから」


 二人は道に沿って歩きながら手分けして探すことにした。ありがたいことにブドウ畑は綺麗に木が整列しているため人を探しやすい。


 数分歩くと水奈が遠くの方で何かを発見した。

「どこどこ? あっ、あれね。ちょっと見てくる。待ってて」

と言うと寿美香は一人ブドウ畑の中へ足を踏み入れた。


 …………えっ?


 寿美香は木々の間を颯爽と走っていく。

 先ほどまでのバテた身体など置いていこう。息が切れない程度に速さを抑えながら。本日のウォーミングアップにはちょうど良い。そんなことを考えながら畑の奥へ奥へと進んでいった。


 一方、どんどん小さくなっていく彼女の姿に釘付けになっている水奈は驚きを隠せないでいた。


 寿美香、走るの速過ぎ……ない?


 見間違いだろうか。奥に向かって走っているせいで距離感は確かに測りづらい。しかし、それを考慮したとしても、水奈の目には寿美香の走りが異常な速さに見えたのだ。それは、目の前を電車が通り過ぎて遠ざかって行くような感覚に近かった。


 昨日、彼女が走りには自信があると言っていたことを急に思い出した。

 それが本当であったことがたった今証明されたわけだが、そういった次元ではない気がする。それが水奈の意見だった。プロの陸上選手の速さを生で見たことがないので比較することは難しい。けれど良い勝負ができる、というよりも、果たして勝負になるのだろうか。もしや、寿美香はそっちの世界で有名な人なのだろうか。


 もしかして、寿美香もTOPを……。


「おー……、……つけたよー! こっ…………てー!」


 遠くから寿美香の叫んでいる声が聞こえた。どうやら水奈が唖然としている間に話は進んでいたらしい。

 寿美香がジャンプしながら手をブンブン振っている。その隣には水奈にとって見覚えのある作業服を着た人物が立っていた。幸先は良さそうである。


 水奈も二人のもとへと走り始めた。

 ブドウの木よりもまずは寿美香について調査をしたい衝動に駆られながら。

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