39.ようやく

 走り出してから五十分、車は流れの穏やかな川の上を通過中だ。石造りの橋は左右に街灯を置くことで夜でも安心して人を渡らすことができるし、さらにはその長く横に伸びた退屈なデザインに洒落た装飾を施していた。川の向こうは白と緑の大きな街。セント・エビリオンほどの特色は無いものの、ずっと広く、ずっと栄え、そして何よりもオープンな場所である。観光にはもってこいだ。


 車のドアが開き、熱された空気が車中へと入り込んだことで、眠りこけていた二人が目を覚ます。車が出発してから数分の間に水奈と寿美香はまるで打ち合わせしていたかのように同時に眠ってしまったのだ。


 降り立つとそこは周りの建物と比べひときわ目立つ大きな建物の前だった。その真ん中には針時計がかけられていて、たくさんの窓も備え付けられている。そして同じくらいたくさんある出入口からは、ひっきりなしに人が吐き出されそして吸い込まれていく。それだけでここが駅だということをすぐに察した。

 荷物をトランクから取り出してもらったロバートは、運転手に何かを握らせていた。

 二人もお礼を言うと、運転手の人は笑顔であの町へと帰って行った。


 駅の中は吹き抜けとなっており、外から見るよりも格段に広く感じる。電車の時刻とホームの番号が表示された巨大な掲示板のパタパタとプレートが回転する音や電車の発車ベルの音。旅行者がスーツケースをコロコロ転がす音、大勢の人が交差する足音。耳に入る色んな音がすべて懐かしく思えた。


「それではわたくしもここでお別れです」

ロバートは帽子を外す。

「パリまでご一緒じゃないんですか?」

「あいにくパリまで行かなくとも、近くに小さいですが空港がありまして。イギリスくらいでしたら直行便がいくらでも飛んでいるのですよ」

「……あのー、ロバートさんってイギリスの方?」

寿美香は恐る恐る聞いてみる。

「いいえ、わたくしはフランス人です。ここが母国なのです。今は仕事上イギリスに居りましてな。早く帰りたいものです。君たちは国へ帰れるのですから羨ましい限りですよ。さあ、お早くお行きなさい。切符の買い方は分かりますかな?」

「はい、バッチリです」

 寿美香は他にも公衆電話の使い方やタクシー代の相場、場所ごとの治安レベル、お店でのマナーなどトラブルに巻き込まれない程度の予備知識はすでに持っている。

「それは何よりです。それでは。あっ、そうでした、これをお二人にお渡ししておきましょう」

ロバートはポケットから封筒を取り出すと、一方的に水奈に手渡した。

「イギリスにお越しになった際にはぜひお立ち寄りください。では、お元気で」

彼は一礼すると帽子を被りなおし、スタスタと機敏に歩いて行ってしまった。

「あっ、お礼がまだ……」

咄嗟に出た水奈の言葉も聞こえないほどすでにその後ろ姿は小さくなっていく。

「ぷっ、あの人らしい」

寿美香が吹き出すと、水奈もそれにつられてしまった。


 その後、二人は高速電車に乗り、三時間かけてパリに到着した。時刻はすでに夜の七時。遠くではエッフェル塔がライトアップされ金色に輝いていた。市長とロバートの言う通り、寄り道せずこのまま帰ることとした。パリから空港までバスという選択肢もあったのだが、二人は贅沢してタクシー乗り場へ。無事日本行きのチケットを手に入れると、せめて空港の中だけでも観光したいということで、出発時刻までの間、たくさんのお店が並ぶ場所へと足を伸ばした。


 ここで初めて分かったことだが、水奈は甘いものに目がないらしい。寿美香は自分が知っていたパリの有名なチョコレート専門店を見つけると早速水奈を誘った。ガラスケースの中に並べられたチョコレートたちはまるで宝石扱い。水奈は眺めているだけで幸せそうだった。お礼させてねと寿美香は財布を取り出し、水奈が選ぶのを待った。水奈は申し訳なさそうに、けれどもほほを緩ませながら次々と様々な形や色の違うチョコレートを一粒ずつ注文していく。寿美香は自分用にチョコレートドリンクを買い会計を済ませた。その場で食べるにしてはやや大きいであろう箱を大事そうに抱えた水奈がお店から出てきた。二人は近くにベンチを見つけると、そこで休むことにした。水奈はお礼を言ってからチョコレートを頬張ると、頑張った甲斐があったと泣き始める。寿美香は笑い、そして抱きしめ感謝した。


 お互い積もる話もあったのに、飛行機が離陸した途端二人とも爆睡した。どうやら緊張の糸が溶けたらしい。もはや二人の邪魔をする者などいない。二人は安心と安眠をようやく手に入れたのだった。

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