40.だって、私は……

「まだお礼が足りないと思うのよ」

「はい?」

 日本語が多く飛び交う空港のロビーで、寿美香は突然何かを思いついたらしかった。

「水奈にお礼をします」

「えー。チョコレート買ってくれたじゃない。こうして日本まで無事に連れてきてくれたんだからもう十分なのに」

「そうかしら、水奈は命の恩人よ。物足りないわ」

「それはもう自己満足の世界だよ」

「うん、じゃあオッケーね。家に帰る前に私の家にぜひ寄ってって。おもてなしするから」

 水奈は半ば強引に寿美香に手を引っ張られると、それに身をまかせることにした。逆らえないからというわけではなく、それはきっと彼女と同じ気持ちだったからに他ならなかった。


 空港からさらに電車に揺られること二時間。ここは関東の外れ。深い緑の山々と森が出迎えてくれる場所。そこに寿美香の家があるらしい。

 駅に降りてすぐに乗り継いだバスの車内では、リュックと帽子を身につけたご老人たちが談笑している。周りの人たちを見る限り、どうやらここ一帯は観光地のようだ。坂をぐんぐんと登っていく。バス同士がすれ違うと冷や冷やしてしまうほど狭い山道だ。

 ほぼ満席だった車内も残り数人となった頃。寿美香はブザーを押した。バスはピカピカに磨かれた分厚い木の看板の前で停まると、二人を置いてまた山道を登っていった。


『澄み家 SUMIKA』


 目の前には瓦屋根の建物がひっそりと森の中に佇んでいた。植えられた木々の間からは真っ白い壁が見える。横幅のある木の格子戸がきっと玄関だろう。歩くにつれて水の音が聞こえてきた。近くに川が流れているのだろうか。まだ明るい内から灯りが付けられており、夜はさぞかし幻想的な雰囲気になるであろうことが想像できた。

「寿美香の家ってまさか」

「そうよ。ご覧の通り、うちは温泉宿をやっているの。さっ、どうぞ」


 自動ドアの格子戸をくぐると笑顔の従業員四名がお出迎えをしてくれた。しかし、寿美香の顔を見るなり全員が青ざめ、周りを気にしだす。逆に彼女は気にしていない様子で従業員たちにただいまーと挨拶。そこへ一人の着物姿の女性が廊下の奥から機敏にやって来た。他の従業員とは違い、寿美香を視界に入れた途端、眉毛をつり上げた。

「まあ寿美香! 何度も連絡したのに出ないし飛び出して行って心配したのよ! 電話が来たと思ったらすぐに切ってしまうし。しかも何ですか、表から入ってきて! いつも裏口から入るよう言っているでしょ!」

「ただいま、お母さん。その話は後でいいでしょ。あと、玄関から入るのは正当よ。何たって今日は大事な大事なお客様がいるんですもの!」

 寿美香はニコニコしながら道を開けると、ぎこちない笑顔の水奈を紹介した。


 大きな窓からは森が顔を覗かせ、風で揺れる木々のざわめきが聴こえてくる。二人部屋と聞いてはいたが、それにしては随分と広い。しかも室内には露天風呂まで付いているのだ。そして何と言っても驚いたのが、すぐ目の前を流れる滝と小川である。この旅館は高級な部類に入るであろうことは明らかだった。

 部屋内を探検し終わると、何をするわけでもなく水奈は座椅子に正座して日本茶をすする。自然の音だけが耳に入る。まさに究極の癒し空間であることを知る。

「どう、気に入った?」

寿美香が浴衣を持って現れた。

「滝があるなんてびっくりしちゃった」

「ああ、あれはうちのウリの一つなの。人工に見えるかもしれないけれど、一応近くの川から水を引いてきているから半自然ってとこね。あっ、ここに浴衣置いとくから。サイズはSでいいわよね」

「かっ、かわいい浴衣だね。……ありがとう」

「部屋の中に露天風呂が付いてるの気づいたでしょ。そっちは後で入って。その前に自慢の大浴場もあるから案内するわね。広々として気持ちいいのよ。一緒に入りましょ」


 大浴場は本館とは別の離れにあるらしい。いったん外を出るかたちで長い渡り廊下を歩いていくことになる。途中、他のお客と何度かすれ違う。その中には男性のご老人もいた。ふと、ジェレミーさんのことを思い出す。最後にお礼を言いたかったなと水奈は思った。


 離れに到着した。

 それぞれ男湯、女湯と書かれた青と赤ののれんが左右でぶらさがっている。


 水奈は賭けに出るしかなかった。汗が止まらない。これから温泉に入るのだ。ちょうど良いのかもしれない。

「じゃあ、また後でね」

 そう言って、先行し早足で歩いて行く。

「水奈、そっち男湯よ」

 大丈夫、と曖昧な返事をして水奈は振り返らずそのまま行こうとする。


「……は?」


 水奈がのれんに手をかけたところで肩に手が置かれた。さすが素早い。

「ねえ。どういうこと?」

 水奈は、寿美香の目を見ることができない。早く温泉に入りたくて。


「だって、あの、私は…………男、だし」


 寿美香は思い出してしまった。水奈と出会ってから同性として接してきたことを。

 腕も組んで歩いたし、ペットボトルの水を回し飲みもしたし、もうちょっとで一緒にお風呂に入るところだったし、喜び抱き合ったし、一緒に寝たし。あと、一緒に寝たし。……寝た、し。


「…………」

 寿美香の全身は一瞬にして熱を帯び、水奈の肩から急いで手を離す。


 まさか、こんな細く華奢な体をして男とかありえない。声だって高いし、何より、何より、こんな可愛い顔しているのに。勘違いするのは当たり前じゃない。


「何で、言わなかったの?」

 寿美香は声を震わせていた。


「えっと、あの、正直に言うと、ああ、またかと思っちゃって。初対面の人からいつも女の子と勘違いされるし、最近は説明するのも面倒になっちゃって。人付き合いも苦手だから、別に勘違いされたままでも問題ないというか。でも、寿美香にはもっと早く言わなきゃと思ったんだけど。なかなか言い出せなくなっちゃって。……一緒の部屋で寝たしね。あっ、でも大丈夫。よくお姉ちゃんたちと一緒に寝てたから女性慣れしているというか、変な気持ちも起こさなかった。うん」


 恥ずかしさと怒りは頂点に達し、寿美香の右足は自然と下がっていく。

「そう。男でよかったわ。本気でいけるもの」

 水奈は背中にゾクリと悪寒が走り、ここで初めて振り返る。

「ここ旅館!」

「くたっばれっ」


 水奈は手でガードしようとするもすでに遅く、彼女のひざは水奈のお腹を捉えていた。

 のれんを通り越し、勢い良く吹っ飛ぶ水奈の軽い体。

 脱衣所の壁に激突すると、まずは背中に痛みを感じ、そして後から腹痛がやって来る。痛みから解放されるため麻酔をかけたかのように、水奈はすぐに意識を失った。


 アロハの気持ちが少しだけ分かった水奈だった。

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