30.期待されない者の叫び
木の根につまづき、転倒しないようにと衝撃を受け止めた手のひらは擦り剥ける。挙句に、石にもつまずいて、そのまま崖へと落ちそうになる始末。
作戦前から水奈の息は切れていた。頭では冷静でなければと分かっていた。しかし、敵全員から銃を向けられている寿美香の姿が、さっきから目に入ってきて仕方がない。そんな状況の中でも、彼女が気丈に振る舞っていることが声と姿勢で分かったのだ。
全力疾走だった。
走りながらどう指示を出すか迷っていた。チャンスは一回、一声だけだろう。アロハたちに水奈の狙いを感づかれてはいけない。しかも作戦は希望的観測に過ぎず、これは賭け事と同じだった。だったら、だったらと自分の運を信じることにしようと決めた。それは唯一、水奈が自慢できることなのだから。
そして、早速その幸運が舞い降りている。敵は水奈のことを気にも止めていないのだ。相棒の寿美香が強すぎたのもある。あんな奴が二人もいてたまるかと思うのは当然かも知れない。しかも色白で華奢、大人しめの外見ときている。水奈をおまけの存在にしか思っていないのだ。
水奈自身も敵から脅威の対象とされていないことは理解できていた。なぜならこの状況には慣れっこだったから。
水奈には二人の姉がいた。どちらも優秀な姉だった。周りから三番目の子もさぞかし優れた子なのだろうという目で見られたのである。だが、成績は普通よりやや上。運動も平凡。特技なし。アグレッシブな姉たちとは違い、水奈は引っ込み思案であり影の薄い子だった。一人で遊んでいる方が楽しい。友達と外で走り回って遊ぶよりも、お家で児童小説を読んだり絵を描きながら空想に耽っている方をよく好んだ。唯一姉たちと同じところといえば、その可愛くて品のある顔立ちだけだろうか。
幼少期から比較される毎日を送り続け、結果、水奈の性格はそのまま、であった。無理もない。しかし、姉たちのことは大好きだったし、彼女らも水奈のことをとても可愛がった。過剰なまでに。
彼女たちは水奈を日本に置いていく未練を残したまま、それぞれが海外へと進出していった。言ってしまえば、ようやく姉からの呪縛が解かれたのだ。なんとなくでも自分のために自分らしく生きていこうと決めてみた。少しでも誰かに見てほしくて。にも関わらず、フランスの地でも結局、やっぱり、一緒だった。
誰からも期待されず視界にさえ入らない。そんな水奈が今は懸命に走っている。
なぜならば。寿美香が水奈を信じ待ってくれているからだ。
寿美香は走り出す前、声を震わせていた。今だって本当はものすごく怖いだろう。それでも敵に対峙できているのは、自分の夢、そして仲間への期待から。
寿美香に対して能力を使う必要はなかった。
苦しくても大きく息を吸い込んだ。
そして。
「寿美香! アロハは任せた!」
叫び、そのまま水奈も戦場に飛び込んだ。
水奈の叫ぶ声が洞窟内にこだまする。
手下二人は日本語を知らないため意味が理解できていない。太った方は一瞬戸惑うも大人しめの方の女の子が走ってきたことで少しほっとした。背の高い手下の銃口は依然と寿美香へと向けたままだ。さして問題視していなかった。
そして、唯一日本語が話せるアシムは、すべての注意警戒を寿美香へ向けているものの、少なからず考慮すべき事態であると認識した。
水奈の言うとおりならば、目の前にいる寿美香が自分に襲いかかってくることになる。武器はあるので十分戦えるはずなのだが、一発目を外した時のリスクは相当なものであると考えた。
彼女との距離はおよそ十五メートル。果たして二発目を撃たせてくれるだろうかとアシムに不安がよぎる。一体何秒でこの間合いを詰めてくるのか予想がつかないからだ。寿美香のスピードは未知数だ。だから、銃口を彼女から一時も離すことができないでいる。
洞窟内は涼しいのに、アシムの額にも汗が垂れ始める。
アロハの瞳に水奈の姿が写る。町で出会った時の、あの困った表情で怯えた水奈はどこにもいなかった。まるで人の願いを背負っているかのように重く、険しく、そして鋭い水奈の表情を見るのは初めてだった。
必死に向かってくるその姿を見て、アシムも覚悟を決める。
「レクタン、あの女を撃て!」
水奈を素早く指さすと、背の高い手下にそう指示をした。
水奈にはその英語の指示などもはや聞こえてこない。これからしなければいけないことに集中していたからだ。揺れるリュックの中から先ほどまで使っていた懐中電灯を探り出すと、柄の部分を強く握りしめる。
レクタンは銃を構えていた腕をゆっくりと下げた。アシムの指示はちゃんと理解できた。しかし、納得ができないでいた。
今まさに日本人から先手を打たれていて、こちら側からも何か仕掛けなければいけないタイミングなのはよく分かる。だからと言って、早々に銃をぶっ放すという考えにどうしても行き着けない。自分たちの目的はあくまでブドウであって殺しではない。むやみやたらに殺人を犯すのは彼の美学に反することだったからだ。寿美香は別としても、そもそも水奈ほどの体格の人間が襲ってきても軽くいなせる自信はあった。それに今はけん制のために持っているに過ぎず、わざわざ武器を使う相手ではないのだ。
彼は銃を胸ポケットの中にしまった。ただし、女だからといって容赦はしない。水奈を手厚く迎え入れるために身構えた。なぜなら水奈の標的はレクタンなのだから。そう彼が認識できたのは、水奈の目線がまっすぐ自分を突き刺さしているからだった。バレバレなのよ、と彼はほくそ笑む。
アシムは、後ろにいるレクタンが命令を無視していることなどまったく気づきもせず、むしろこれで寿美香への対処に集中できると意気込む。多少の余裕ができた。じきに水奈は撃たれることだろう。ならば今、目の前にいるこの生意気な小娘を相手にすることに努めよう。不安はあるものの確実に一発はお見舞いすることができる。それで仕留めればいい事だった。
今度はこちらが先手を撃つ番だとアシムは判断した。片手から伸びた銀色の銃が寿美香のおでこを捉える。
アシムは、町で二回目に出会った時のことを思い出した。蹴られふっ飛ばされたあの時の痛みが蘇り、殺意に拍車がかかる。ここに慈悲なんてものはない。ブドウを取ってくるよう依頼があった。そしてそれを邪魔する者が現れた。だから排除する。それだけのこと。
この距離なら確実に当てられる。
寿美香はいよいよアロハが自分に向けて撃ってくるだろうということを、彼の表情から読み取ることができた。なにしろ愉快そうに笑うのだから。
寿美香の髪の毛が揺れた。
水奈が寿美香の真横を素早く通り過ぎたのだ。そして背の高い手下の方へまっすぐ向かって行った。
お互い声をかけ合うことはない。必要がなかった。
「それじゃね」
アシムはは終わりを告げると、引き金に手をかけた。
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