29.平和ボケな国

 寿美香が走り出してから遅れること八秒、あの光り輝く一本の木へと水奈も駆け出す。湧き上がる感情を一切かき消して。


 前を走る寿美香は早い。が、果たして間に合うだろうか。相手側の木までのルートは、実につまらない平坦で横幅のある道。しかも人の手が入り、舗装されている。さしてこちら側は、小石も転がる足場の悪い狭い道。しかし、それはまだかわいいほうかもしれない。


 何しろ道の途中には巨大な四角い岩が道をふさいでいるのだ。

 距離はほぼ同じ。

 間に合わないからといって寿美香の足は止まらない。足場の悪さなどまったく気にもしない思いっきりの良い、気持ちの良い走り方。何よりフォームが綺麗なのである。


 しかし、それでも目の前には巨大な岩が厳かに眠っている。登るにしてはあまりにも真っ直ぐで高くまず無理だ。岩の前には木の看板が不自然に置かれていた。なにやら文字も書かれているらしかった。その看板の存在に気づいた水奈はすぐに察した。先ほどに続いて今度は仕掛けの登場である。


 看板には謎かけが書かれており、それを解かない限り岩は退かせないという寸法だ。教会のステンドグラスの仕掛けと同じ。しかし、あの時のように悠長に考える時間などこの状況下ではどこにもない。どんなに早く仕掛けを解いたとしても、たどり着いた先には相手の憎たらしい喜んだ顔が待っているに違いなかった。


 くやしい。寿美香と約束したのに。まさか他人の介入があるなんて思ってもみなかった。誰かと本気で争うことなんて今までなかったせいで、この殺伐とした状況がまず怖い。寿美香は平気なのだろうか。果敢に相手と立ち向かう姿勢を見る限り、問題は無いとは思う。しかし、この後はどうだろう。あいつらが私たちを簡単に見逃すだろうか。

 情けないなんて言ってられない。この争奪戦は負けるだろう。だけど、その後に待っている戦いに負けるわけにはいかない。せめて寿美香だけでも助けないと。

 何かないのか。あいつらをまとめて出し抜く方法を。


 ドゴオオオンッ!


 突如としてこの広い空間全体を大きく振るわせてしまうほどの轟音が鳴り響く。


 音の発信源は水奈の前方。そう判断できた訳は、先ほどまであったあの巨大な岩が今まさに崩れかかっていたからだ。岩の側面にはクレーターのようなものが現れ、そこを中心にまるで稲妻が走っているかのようにゆっくりとひび割れが広がっていく。ピシッと軋むような音がして、直後砂煙を舞き上げながら巨大な岩が崩れ落ちていった。


 仕掛けを解いたわけじゃない。寿美香が蹴りの一撃で岩を粉砕したのだ。原因は至って単純だった。ただ、そんなことに挑む人がどれだけいるだろうか。もしかして彼女は私なんかが思っていたよりもずっと強い人間なのではないか。

 まだ岩が崩れ落ちている最中にもかかわらず、じれったいとでも言いたいのか、寿美香はまだ砂煙の立ち昇る中へその身を突っ込んで行った。


 先ほどの疑問が確信へと変わる。


 彼女は本当に強い。代償を気にしないから。

 この勝負、勝てるかもしれない。負けるだろうなんて言葉、もはや言えない。勝利を確実にする鍵は、おそらく私だ。私にかかっている。寿美香が目の前で頑張っているのだ、私がやらないでどうするんだ。


 全身に鳥肌が立った。失敗が許されない緊張感と自分が自分に対して課した使命感とで、言葉では言い表せない感情が湧き上がる。思考を守りから攻めに変更する。

 意識を前方に戻した水奈は、地面から無数に突き出た木の根を踏みつけながら疾走する寿美香の姿が見えた。彼女と木との距離は、三十メートルも離れていなかった。急いで左方向も確認する。


 あっ。


 やつらは、さらに二十メートルのところまで距離を縮めていた。良かった、あれなら大丈夫。十メートルの差など、彼女にとって差が無いのと同じであると豪語できる。なら。やはり私がやるべきことは決まっている。やってやる。


 他の四人とは違い、水奈の足が木の根の上で止まる。呼吸は荒く張り詰めたままの精神。いつもと状況はまるで違うが、やるしかなかった。市長相手に成功しなかった、人の心を読む能力。


 今度は、絶対、成功させる!


 目を開けたまま、視覚を一旦遮断する。意識を頭の後ろ斜め上に持っていく。心を落ち着かせ、目線をあいつらに向ける。私の分身があいつらの身体に飛び込み、深く深く侵入していくイメージ。

 通常ならばゆっくりと行うこれら動作一式をおよそ二秒で行う。頭が痛い。無茶をしているのが分かった。だが、それよりも意識をさらに潜り込ませていく。

 痛みは最高潮に。それと同時に、他人の思考が水奈に流れ込んできた。


 なんて脚力してやがる、あの女、化け物か。だかな、こっちには銃がある。


 一番前を走る背の高い手下の思考がはっきりと読み取れた。成功だった。

 浮かれた心を抑え、即座にその後ろを走る二人にも侵入を試みる。


 なんだあの子。あんなの相手にしなくちゃいけないのか、やだなー。銃も使いたくないし。撃ったことないんだってば。でもアシムさんに怒られるのもやだなー。ここはいつも通りアニキに任せよう。


 太った手下は、顔に汗をにじませながら必死に重たい体を引きずり走っていた。


 思った以上の実力ね。まともにやりあったら勝ち目なんてない。ここなら人目もつかないし好都合。抵抗するようならすぐに消えてもらう。


 物騒なことを考えるアロハの思考に、水奈の身体は再び震えた。それを支えてくれるのは前をゆく寿美香の勇姿。そして彼女をつき動かすのはジャーナリストとしての真実を追い求める欲望のみ。水奈とは違い銃を見たのは生まれて初めてだった。しかし、あのブドウが目の前にあってしかも手の届く範囲にあるとなれば、銃などナイフと同じレベルの脅し道具にしか思えなかった。それは彼女の実力があってこそのことである。

 木までの距離は十五メートル。寿美香はブドウを取ることに全神経を集中していた。


 それに対し水奈の神経は四方八方へと飛び散っていた。寿美香の気持ちを汲めば自分が冷静に全体を見渡すべきであると判断したからだった。寿美香が一番早く木へ到着することは間違いない。

 しかし、その頃には、背の高い手下が彼女を射程圏内に入れることも間違いなかった。


 取られる前に銃でおどしてやりゃあいい。一発撃ちゃびびる、つっ、い、痛ってー。サルクルの野郎、ハシゴ踏み外しやがって。あの巨体で押しつぶされた俺の右腕、どうしてくれる。骨折はしちゃいないだろうが、こりゃしばらく使いもんにならねえぜ。左手で打つしかねえか。だが、なーに、十分いけるさ。


 頭はあいかわらずの痛さ。再び走り始めるが、水奈は構わず能力を行使した。


「考えるんだ………」


 よしっ。これしかない。


 水奈は顔を上げた。


 もはや立ち止まって考える時間なんか無い、瞬時に作戦を立てる。本当はこの一瞬で何通りかの策を練ることが理想だけれど、今の私にはこれが精一杯。今はこれでいい、上出来。


 寿美香は走りながらも無意識に右腕を前へと伸ばし、スピードはそのままにブドウを掴む体制を取り始める。前のめりになる身体は風の抵抗を消し去り、より加速する。木との距離は三メートル。天井からの光によってブドウの実の上半分が照らされ、それは月の満ち欠けのように見えた。そこまで目前に迫った時である。


「待て!」

 あせる声が洞窟内に響く。


 寿美香は、木を挟んで反対側からくる殺気を感じ、立ち止まった。思わず唇を噛んだ。あたしが遅かったからだと悔しがる。あと少し早ければと。


 寿美香の猛攻を止めたのはやはり長身の男。銃を構えながら寿美香へと近づいていく。

「動くな、そのままだ」

 彼が有利な状況にも関わらず銃身がぶれてしまい慌てた様子なのは、寿美香を目の前にして彼女のプレッシャーを感じてしまったからだった。そこそこ蹴りの強い日本人の女がいる、そうアシムから聞かされていた。ところがどうである。巨大な岩を一撃で砕き、三十メートルの差を一瞬で詰めてくる。レクタンが何よりも気がかりなのが女の目だった。銃を向けられているこの状況でも瞳には闘志が宿っている。輝きさえ放っているように彼は感じた。はたから見れば劣勢なのはあきらかに彼女の方なのに、レクタンは自分が追い詰められている気さえしてくる。


 こいつ、避ける気でいるのか。いくらなんでも無理だろう。間合いに間違いはない。もう一人の女はこいつより強いはずもない。よし、仲間もすぐ後ろだ。いける。


 アロハともう一人の手下も到着した。

「早い、すごく早い! しかもあの蹴り! ファンタスティック! 何度驚かせたら気が済むのよ。これは将来有望ね。ジャーナリストになるのが夢とかなんとか言ってたっけ? お嬢ちゃんならなれるよー。でももったいないなー。こんなところで人生終わっちゃうの。嫌だよねー。だからー、その場から動かないこと。それだけ」

「うるっさい! あたしはこのブドウを持ち帰って記事にするの。邪魔はさせないし何よりあんたにだけは奪われたくないわ」

「まーだ恨んでるの? 未遂に終わったからいいじゃない。お金に困ってたのよー。ブドウも見つかってないのにお店を襲うのもなんじゃない」

 アロハはさも困った顔をするものだから寿美香が腹を立てるのも当たり前だった。

「だからってあたしを利用する理由になるか! なんてやつ! 蹴っ飛ばして谷底に落としてやりたい気分だわ!」


 寿美香の目が一層険しくなると、太った手下は彼女の迫力に負けて一歩後ずさった。


「サルクル! こら何してる。お前は臆病すぎていけないね。レクタンを見習うことね。銃を構えて! ……そう、それでいい。お嬢ちゃん、あのね、自分の状況をわきまえてから発言しなくちゃー」

「その黒くて小さーい飛び道具であたしを狙ってるだけじゃない。何か問題でも? あんたたちの方がよっぽどわきまえてないじゃない。そんなものであたしが止められると思ってるんだ。お笑いね」


 笑う気のない寿美香が突如右足を引いた。この場にいる全員が分かった。走り出すための準備だということを。


「おい、マジで撃つぞ!」

 寿美香をこれ以上動かせないよう、レクタンと呼ばれる背の高い方の手下が銃口をさらに確実に寿美香へと絞った。


 彼女はそれ以上動かなかった。


 アロハはその様子を見ると楽しげに笑う。

「あはー、やはりねー。あんな平和ボケした国に生まれたんじゃね。銃を突きつけられるなんてことなかったでしょ。貴重な体験ができて良かったじゃない」

「悪く言わないで! 日本は、日本はいい国よ、ほんと。飛び出してきておいてなんだけど。人と協力して何かを成し遂げることに関しては世界一得意だし、抵抗が無いんじゃないかしら。悪く言えば警戒心がない。良く言えば、人に任せ、そして人を信じることができる」


 寿美香の瞳は非常に澄んでいた。

 なぜなら、蚊帳の外に置かれた者の足音が寿美香の耳にはしっかりと届いていたから。


「遅いのよ」


 寿美香はふっと笑い、そんなことをつぶやいた。

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