03.ゾンビと女神様
売店での出来事があってからすでに二時間が過ぎようとしていた。
日本円をユーロに替えてもらうため両替所というものをずっと探し回っているのだが、一向に見つからないのだ。
それもそのはずで。今水奈がいる場所はフランスの片田舎。両替所というものは、観光客がよく訪れる場所すなわち観光地などに置かれていることが多い。この町に住んでいるフランス人のみなさんには大変失礼な話ではあるが、ここを観光地と呼ぶには少々酷というか難儀な町だった。
見つからないのは当然といえば当然なのだが、当の本人はそれを知らないまま、がむしゃらに彷徨い続けていた。先ほどおじいさんから貰ったブドウを口にしてからというもの、炎天下の中で飲まず食わずの状態が続いていた。
「……う~……あ~」
ゾンビの出来上がりである。
このままじゃ水も食べ物も買えないよ。どうしよう。いっそのこと警察に相談しようかな。あっ、だめだ。警察署がどこにあるかも分からないんだし。まあやれば分かるんだけど。やる気も力も残ってないし、警察の人に会えても英語通じないだろうし。
「はあ~」
本日何度目かの溜息を出すのだった。
水奈が今いる場所は、町の入口から中央にある教会へと続くメインストリートから一本横道に逸れた場所だった。道の両側にはたくさんの小さな商店がずらりと並んでいる。ちょうどお昼時なのだろうか、買い物に来た町の人たちで賑わっていた。
その後も危なっかしい足取りだったものの何とか前へ前へとゆらゆら進んでいた水奈だったが、とうとうその場でしゃがみこんでしまった。そんな水奈に追い打ちをかけるかのように容赦なく降り注ぐ太陽の光。しまった、日陰に座ればよかったと後悔するがもはや移動する気力さえ残ってはいなかった。
通りがかる町の人たちが何事かと水奈を心配そうに見つめている。
人の視線に気づかないほどに弱り切ってしまった水奈。もはや汗も出ない。
しゃがみこんでから何秒たっただろう。何分かもしれない、あるいは何十分か。頭がぼやけて時間の感覚が上手くつかめないのだ。だから自分がいつの間にか日陰にいることにもすぐには気がつけなかった。水奈は、誰かの影に覆われていた。
「こんにちは!」
突然、頭上から声がした。
水奈は何とか重たい頭をゆっくりと上げ、目の前に立っている人物を見上げる。
「聞こえてるのかな? こんにちは! あなたジャパニーズ?」
「えっ! ……はい、そうですけど」
水奈は突然の日本語に驚いた。おかげでぼやけた頭が急にクリアになった。
「おおー、やっぱりねー。わたしちょっとだけ、日本語話せる。見たところあなたお困りのよう。相談のるよ」
「あっ、ありがとうございます。でも……」
ピンチな時にこんな都合よく日本語が話せる親切な人が現れるものかな。いやいや、きっと何か裏があるに違いない。日本人は海外で狙われやすいってよく聞くし。
水奈に話しかけてきたその人物は、よく日に焼けた中年の痩せたおじさんだった。鮮やかなアロハシャツに、短パン、サンダルとフランスの田舎ではおそらく見かけないであろう恰好をしていた。地元の人間という雰囲気をまるで醸し出していないのだ。
「遠慮することない。わたし、昔、日本行ったことある。そこでジャパニーズとても親切にしてくれた。だからお返ししたい」
話ができ過ぎてる。何よりサングラスと横にピンと不自然に伸びたひげとのセットは、もうアウトだよ。
怪しいとは理解しているものの、しかし今の水奈にとって周りに頼れる者は誰一人いないのもまた事実だった。彼しかいないのだ。それに、この誘いを断れるだけの勇気と気力は水奈にはもはや残されてなどいなかった。水と食べ物が手に入るのであれば後はどうなってもいいやというその場しのぎの甘い考えが頭から浮かんでは離れない。
「それじゃあ、せっかくなのでお言葉に甘えて助けてくれませんか?」
「いいよいいよ! じゃあ早速車に乗ってその中で話し」
「待ちなさいよ」
またしても突然だった。水奈と男の間に誰かが割り込んできたのだ。
「おい、アロハ! 人を騙すんじゃないわよ! また被害者を作る気? なんにせよ、よくもあたしをエロ親父に売ったわね!」
「おっ、おお~! おじょうちゃん! 久しぶりだねー、無事だったか。あの後心配したよー」
「ふざけんな、あんたがやったんでしょうが! 復讐するために探して探して探しまくったわよ!」
「ええ? っな、なんのこと? おじさん日本語分からない」
「こうしてしゃべってんじゃない! 今からあんたをボコボコにする! どう、意味分からない? 別に分からなくてもいいけどね!」
そう言うと、ポニーテールの女の子は笑みを浮かべながら、右足をゆっくりと引いた。
殴られるのかと思わず身構えた男は怪訝な顔をした後、すぐに安堵した。
「な、なーんだー、おじさん、びっくりしちゃったよー。そうよねー、やっぱり日本人はやさし、ぐはっ!」
それは一瞬だった。
男が話をしている最中、女の子は引いた右足で男のお腹に蹴りを入れたのだ。彼女の蹴るスピードが早すぎて水奈には何が起こったのかさっぱり分からなかった。ただ、男がその衝撃で五メートルばかし後ろに吹っ飛んでしまったことだけは把握できた。
人ってあんなに飛ぶんだ……。
水奈は口をあんぐり開けながらその様子を黙って見ているしかなかった。
中年の男性が地面に倒れている。ご自慢のひげが地面に擦れてぐんにゃりと曲がってしまっていた。それを満足げに見下ろしている女の子。
水奈と同じくらいの背丈のその女の子は、後ろを振り返ると水奈に声をかける。
「こんにちは! あなたひょっとして日本人?」
「…………」
「もしもーし、あなたに聞いてんの。わかるー?」
「うん、はい、日本人です」
「やっぱり! よかったー。日本人に会えると安心するわー。って、それはいいんだけど。何で震えてるの?」
あなたが恐ろしいからです、なんて言えない。
「そっかそっか、この男に無理やり連れて行かれそうになったからか。だよね。気持ち分かる! あたしなんて実際連れ去られたからね」
「え!」
「一昨日のことよ。親切にしてくれるって言うから車に乗ったんだけどさ。別の町にある高級ホテルの前に止まった時はラッキーってはしゃいでたんだけどね。最上階のいかにも高そうな部屋へ案内されたの。そこであたしがくつろいでたら……」
「……たら?」
その先が気になり、ついついうながしてしまう水奈。
「全然知らない太ったおやじが突然部屋に入ってきて、キモいことにあたしに迫ってきてさ。だから何のことだかさっぱり分かりませんって、部屋間違えてませんかって丁寧に口で抵抗してたのよ。でも高い金払ってるんだからー、とか言ってしつこかったの。だから……」
「……だから?」
「とりあえず気絶させたの!」
なんでドヤ顔なのだろう。 まるで楽しかった思い出を話してるみたいに。
「それにしてもあの蹴りはすごかったですね。容赦ないというかなんというか」
「あたし、陸上部に所属しているからさ、脚力には自信あるのよね!」
部活動だけであんなに強くなるものなのかな……。
その女の子とは対照的に水奈の表情は硬かった。だが、恐がっていても仕方がない、せっかく到来したチャンスなのだ。お願いをしようとして、しかしふと気づく。
「あっ、そういえばまだお礼を言ってなかったです。助けてくれてどうもありがとうございました」
「ふふっ、いーっていーって」
もしもあのまま車に乗っていたら水奈はどうなっていたのだろう。体力的にも精神的にも辛いこの状態は、もしかしたら水奈から抵抗する力を奪ってしまっていたかもしれない。そうなればいろんな意味で水奈は大変な目にあっていただろう。そう思うと感謝せずにはいられなかったのだ。
少しだけ安心してしまった水奈に、再び脱力感が襲いかかってきた。思わずその場でまたしゃがみ込んでしまう。
「ちょっと大丈夫?」
ポニーテールの女の子も一緒にしゃがみ込み、水奈の顔を確かめる。
「どこか痛むの?」
「そうじゃないんだけど。朝から水分を取っていなくて。あとお腹も」
「あー、それならあたし知ってるんだ、美味しい店。ねっ、連れてってあげる。行こっ!」
「はい、ぜひよろしくお願いします」
と水奈が快く返事をし終らないうちに腕をなかば強引に引っ張られた。
ずいぶんと積極的というかアクティブな子なんだな。きっとこの子も私とは間逆の人間なんだろうな。
羨ましいやら、悲しいやら、妬ましいやら、複雑な感情が湧き上がってはきたが、それよりも嬉しいという気持ちの方がずっと強かった。なぜならこの子は今から水奈を助けてくれるのだから。女神様のように見えた。おおげさに聞こえるかもしれないが、人を飢えから救ってくれるのだ。言い過ぎではないはずだ。
水奈のように一度飢えにかかれば、きっと分かるのではないだろうか。
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