23.怒りの鬼ごっこ

 ようやく教会まであと五分ほどの距離まで迫った時だった。


 買い物かごを持った金髪の少年が道端で棒立ちになっていた。目を大きく開けて二人のことをじっと見ているのだ。親におつかいを頼まれたのだろう、かごにはチーズやパンやらが無造作に詰め込まれている。

「お買い物なんてえらいわね」

「そうだねー」

「あたしたちをにらんでさえなきゃ、ね」

「そうね」


 こんな幼い子にまで警戒されるとはこの町の非情さがよく分かるというもの。

 少年は目線を送るだけでは飽き足らないのか、何やらぶつぶつとつぶやいているようだ。

「寿美香、あの子なんて言ってるのか分かる?」

 寿美香も気になり少年に近づくと、あたしたちに何か用かしらと優しく声をかけた。しかし、少年は質問に答えるわけでもなく、淡々と一つの単語をつぶやいているらしかった。


 寿美香の耳がぴくりと反応した。そして、少年はにやりと笑った。


 突然、少年がその場から駆け出した。すると寿美香もまたその後をすぐに追い始めた。それを見た水奈も慌てて二人の背中を追いかけることに。

「どうしたの!」

「あいつずっと貧乳って連呼してた! 許せない!」

寿美香は後ろを振り返ることなくそう叫ぶと少年の後に続き町中を疾走して行く。


 せっかく教会まであと少しのところなのに。水奈は思わずため息を吐いた。

「もう、子どものいたずらじゃない。そんな反応しなくてもさ」

水奈はあきれるが、彼女には冗談や悪ふざけが通じないことくらいよく知っている。あの少年はやってはいけないことをしでかしたのだ。


 先を行く少年は入り組んだ道を勝手知ってるかのごとく走り抜けていく。石垣状になっている坂道の側面を躊躇なくよじ登ることでショートカットを難なくこなしていった。小さな身体からは想像がつかないほどになかなかのすばしっこさで追跡者二人を翻弄するのだ。


 ただ、相手が悪かった。寿美香のがむしゃらな脚力で少年との距離はみるみる縮まっていく。

 その二人の攻防からだいぶ離されてしまった水奈は、置いて行かれまいとなんとか自分の視界に二人の姿をおさめるよう懸命に走っていた。


 途中、少年が建物と建物の隙間に入り込んだ。中を覗くとちゃんと反対側に出れるようになっているみたいだ。寿美香もすぐに後に続く。

 しかし、少年にとってはよく使うこの抜け道も、彼女にとっては狭き道。体を横にして進むしか他に術もなく、彼女が真ん中に到達した頃にはすでに少年は出口にたどり着いてしまっていた。歯がゆい思いをしてしまう。

「待、ち、な、さ、いー」

四苦八苦しながら狭い通路を飛び出すと、また石畳の道に出た。


 意外だったのは、少年が逃げることなくそこで待っていたことだった。

 寿美香は少年が負けを認めたのだと察すると、途端に意地の悪い顔をした。

「ふふん、私の速さに驚いて諦めがついたってことかしら。 今ここで謝るなら許してあげないこともないけど。どうする?」

「お姉ちゃん、よくあの狭いところ通れたね! あっ、そうか、ここにあるものがないからだ!」

少年は自分の胸に手を当てながら笑った後、また逃げて行った。きゃっきゃっとずいぶんとまあ楽しそうである。


 そこへ良いタイミングで息も絶え絶えになった水奈が現れる。

「寿美香、待って。もう走れないってば」

 なぜか、寿美香が一人背中を向けてポツンと立っている。待っていてくれたのだろうか。


「あ~、そっかそっか。あいつ、あたしにぶっ飛ばされたいんだ。そうに違いないわ」

寿美香はやけに楽しそうだった。そしてまた走り出したのだ。


やっとの思いで寿美香に追いついた水奈には目もくれずに。


「待ってー!」

 悲痛なパートナーの叫びをよそに寿美香は走る走る。


 人を避けつつ最短のルートを模索しながら、前を行く自分よりもひと回りも小さい憎たらしい子供の背中を追いかける。

 その差はみるみる縮まっていく。寿美香の脚力が怒りによってさらに上がっているらしく、それはもはやドーピングに近いものだった。


 少年は近づいてくる追っ手の足音を聞き、一度後ろを振り返る。追いつかれるのは時間の問題である。しかし、不思議なのは少年がまだ笑っているということだ。


 大通りからはだいぶ外れた場所までやって来た。道の両側は家々が隣接しあう密集地帯だった。建物がまるで巨大な壁のように感じられる。


 突然、少年がある角を曲がった。


 見失ってはいけない。寿美香はなおのこと急いだ。誰かが飛び出してこようともお構いなしに勢いそのままに彼女も角を曲がる。

「!」

 行き着いた先は行き止まり。


 そして、少年の姿は消えていた。


 そこは薄暗い袋小路。ドアも出口もない。あるのは無造作に置かれた樽と木箱だけ。上を見上げるが、三階の高さまである垂直な壁をあの小さな身体一つで登っていったとも考えにくい。木箱をどかしても樽の中を覗いても少年を見つけることはできなかった。

「嘘でしょ」

 寿美香はおのれが怒っていたことも忘れ唖然とした。


「こわいなーもー。帰ろー」


 遅れてやって来た水奈は、寿美香から事情を聞くとすぐにこの場を離れたくなってしまい、彼女の服の裾を引っ張り始める。

「勝手にホラーにしないで。水奈だってがきんちょの姿見たでしょ」

「そんなの分かんないよ。今となってはあの子幽霊だったのかもと思うとさ」

背筋が凍るんだと主張した。

「絶対何か仕掛けがあるはずだわ。捕まえるまであたしは帰らないから」

「もういいじゃない。幽霊にからかわれたと思えば。許せないものも許せるようになるよ」

「いーえ、駄目よ。あのね、あたしたち二人、貧乳ってバカにされたの。それなのに見過ごすほうがおかしいわ」

「え、自分も入ってるの?」

「当然でしょう」

寿美香は、水奈の胸と自分の胸を交互に見た後、

「あたしより小さいんだし水奈の方がむしろ怒ったっていいくらいじゃない」

と、彼女の口から思わず笑みがこぼれた。


 そういえば同年代であたしより小さい子、水奈が始めてたかも。世界はやっぱり広いのね。同じ日本人だったけどさ。あたしだけじゃなかった。最下位じゃなかった。ここへ来て正解だったわ。


 水奈の目に、一人で頷く寿美香の姿があった。

「まあ……いっか! 今回は特別に水奈に免じてあの子は許してあげることにする」

 そう言うと、寿美香は水奈を引き寄せ抱きしめると頭をポンポンと優しく撫でた。

「泣かないで。諦めちゃだめよ」

 水奈にはなぐさめられている理由がよく分からなかったが、とりあえずこの場を去れることに感謝し、大人しくご機嫌な彼女に従うことにした。


 それにしても少年はどこへ逃げたのだろうか。静かすぎる袋小路を見ながら、水奈の身体はやはり震えていた。

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