32.目の前にあるのに
いつからそこに居たのか分からないくらい、気配を消し、景色と同化していた男性。
銀色のL字型のステッキを片手に、ブドウの木の下にいる二人のもとへゆっくりとした足取りで向かって来る。ダークグレーのクラシックなスーツで身を包み、ネクタイをきつく締め、中折れ帽を深く被るその姿は、まさに英国紳士のように見えた。
近づくにつれ、アロハとは比較にもならない立派に真横へと伸びた口ひげと規則正しく揃えられた髪はどちらも真っ白いことがよく分かった。市役所で会った市長と背丈や格好の印象がよく似ていた。
ブドウを背にして、寿美香は男に立ちはだかる。ブドウは私のものよと言わんばかりに腕を組みながらその場で仁王立ち。
しかし、彼女の威圧を気にも留めていないその男性は、かつかつと軽快に歩くと、天井からの光を浴びたところで立ち止まった。太い眉毛の下から覗かせる鋭い眼差しは、二人の明るい気持ちを奪っていく。彼と対峙していることで、これからこの男に審査され採点でもされるかのような、そんな緊張感が不思議と漂っていた。
「君たち、お強いですな」
気品のある顔をくしゃりと歪め笑うと、
「日本のお方とお見受けしますが?」
「そ、そうですけど……」
意外にも友好的な声かけに寿美香は戸惑った。
「それでは市長が言ってたのは君たちのことだったんですか。となると、目的は、あれ、ですかな」
男性はステッキをくるりと回すとその先端を寿美香の後ろのブドウに向けた。
「はるばる遠くからお越しいただいた方には余計なお世話に聞こえるでしょうが。そのブドウを持ち帰るのが懸命なことだとは到底思えませんな。お互いにとって」
男性が一瞬笑みを消したのを水奈は見逃さなかった。
町の端から端まで歩かされ、憲兵隊に囲まれた市役所に侵入し、教会の坂を全力で駆け上がり、そしてようやく敵を排除した今この時。ブドウを目の前にしてタイミングよく現れるこの男性は一体何者なのだろうか。
ああ、そうか。心を読めばいいんだ。
疲弊しているせいで自分の能力も忘れていた。無理したおかげで頭も痛いし体力も底を尽きかけている。けれど相手の情報を掴めばこの状況をなんとかできるかもしれないから。
先ほどのような無茶な能力の行使は厳しい。今度は意識をゆっくりと相手に向かわせる。謎の男性の心へと潜りこんでいく。
「あ、れ?」
思わず声が出てしまった。
何かの間違いだろうともう一度潜りこむ。そしてまた同じ言葉をつぶやいた。
驚くのも無理はなかった。心の声が聞こえないのだ。男性の頭の中は暗闇で、正確に言うとそこは無音だった。真空のような息苦しささえ感じた。
そんなはずはないと一人焦る。人間は心を無にすることはできない。それに近い状態に持って行くことはできるが、相当の訓練が必要なことだし、なにより水奈の能力はその心の底の底にも到達できる力なのだ。
市長の時もそうだった。水奈のたった一つの武器が効かないのだ。
途端に、そしてさらに、目の前の人物が恐ろしくなった。
「私には通用しません」
ぽつりと男性がつぶやいた。その目は真っ直ぐに水奈へと向けられていた。
水奈は目を見開くと、硬直した。
「なに、あなたも邪魔する気?」
寿美香は男性に対し静かに敵意を増していく。
「はっはっはっ。いやいや、まいった。お若いレディーからそんな目で睨みつけられると、こちらとしてはたじろいでしまう」
男性は苦笑いして見せ、帽子のつばで目を覆い隠しステッキをくるくると回す。
言葉とは裏腹に余裕のある態度が寿美香の苛立ちをさらに募らせた。
「止めても無駄よ。このために頑張って来たの。手伝ってくれた水奈にも顔向けできないじゃない」
寿美香はさらに睨みつける。
「では、どうしましょう?」
「日本に戻ってこの発見を記事として書く。ブドウのことが真実だったとみんなに伝えたいから。そのためにはブドウを食べて証明しなくちゃならない。だから持ち帰るわ」
「ほお。ではあなたは自身の私利私欲のためにブドウを奪い、あげく世間に公表するとまで仰りたいのですな」
「言い方に気をつけて。こんな素晴らしい物の存在を本当に必要としている人たちにも教えてあげる。それのどこに欲があるというの!」
「お若いな、いや、青臭いだけですか」
男性の呆れたような声が聞こえた。
歯を食いしばり怒りに震える寿美香は、今にも目の前の男性を蹴り飛ばしそうな勢いだ。それを踏み止まるのは、彼女もやはり体力と集中力が欠けてきているからだった。
「言わせておけば、このっ!」
それでも無理を通り越し、戦おうとする寿美香を水奈が後ろから抱きつくようにしてそれを制した。水奈が抑え込めるほど弱っている。寿美香がこの数日間無理をしていた代償がやっとここにきて来てしまったのだ。それは遅いくらいだった。
男性は地面にひざをついている寿美香にステッキの先を向けると、これまでになく冷たく凍るような目をした。
「あなたはこやつら下賎な者たちと同じ。事情が交差することを考えようともしない。品のかけらも無いのです」
「なにを言って」
「ならば! ならば、分かりやすく言いましょうか。あのブドウ、確かに噂通りのものです。考古学的にも価値が高く、TOPと呼ばれる代物です。まさしくあなた方が探し求めていたものでしょう。ここまで苦労されたのではないですかな。誠に古く閉鎖的な町ですから。住民の皆さんはこの場所を簡単に教えてくれましたか? おそらくほとんどの方々は何も教えなかったことでしょう。なぜだと思いますか。そうです、教えたくないのですよ。よそ者などに。決して奪われたくないのです。町の中を観光してご存知かと思いますが、この町の女性たちはあのブドウを食べております。毎年一房だけ実るのです。そして十二歳を迎える娘たちはここを訪れ自分の手でブドウを摘み、一人一粒ずつ食べるのです。この町の豊作を願う昔からの儀式ですよ。大きな胸は豊かさを表すそうですな」
「その儀式を続けるために観光客に冷たくするの?」
「そこは仕方ないと言えばそれまでですが。昔、ブドウの噂がいつしか町の外に広まり、以降それを狙う者が現れたのです。今では毎年一件の割合で窃盗未遂が発生すると聞きます。外から来た者への警戒心が人一倍強いのも頷けるというものです。ましてや外国人が訪れたとなれば、この町にはこのブドウ以外何の魅力も無いと知っている彼らはただの旅行者とは見ません。見れないのです。まるで泥棒扱いですよ。はっはっはっ」
「何がおかしいのよ!」
乾いた男性の笑い声に寿美香は今までの苦労をバカにされた気がして許せなかった。
「失敬、おほんっ。そんな外国人が二組、同じタイミングで町を訪れたのですぞ。しかも予想通り目的はどちらもブドウでした。非常に残念な結果です。やはりここを訪れる者はそればかりだ。あなたに彼らを冷たいと言える資格が果たしてあるのですかな?」
「…………」
流れは完全に向こうのペースだ。このままではいけないと水奈は勇気を振り絞り発言する。
「ですけどあのブドウは……。見る限りfolarの管理下には置かれていません。あなたたちに止める権利も無いはずです」
ステッキで床を叩く音が聞こえた。
「お隣のお嬢さん、よくご存知だ。たしかにここには“f”の看板はありません。すなわちあのブドウは現在誰のものでもないということです」
「あたしたちに取られたくないのならそのfolarに任せればいいじゃない。監視してくれるんでしょ」
寿美香が素直な疑問を投げかけると、男性は帽子のつばを直しバツの悪い顔を二人に見せた。
「それも確かなことです。あやつらに任せれば万全の警備を張ってくれることでしょう。少なくともそう易々と破壊されるような仕掛けは作らないはずです」
男性は先ほど寿美香が破壊した岩をステッキで指し苦笑する。
「安全は間違いなく保障されます。そしてその引き換えとして自由を奪われる、と。ブドウはもう勝手に取ることなどできなくなるでしょうな」
ステッキを下ろすと、洞窟内にも関わらず遠くでも見ているような目をした。
「ですからfolarを嫌う者も少なからずいるということです。そして彼らは選んだのです。町の伝統を守るために、交流の少ない寂しい町になることを」
水奈と寿美香の表情が曇る。
「ふふふ、理解できないでしょうな。そこまでの価値があのブドウには果たしてあるのかどうか。ブドウの効果は確かにすごい力だ。しかし、それだけではないのですよ。もはやあれはこの町のシンボルになっている。ブドウを食す習慣は祭となり儀式となり彼らの生きがいとなっているのです。全員で育て守ることで結束力を高め、町を維持する。ブドウを守ることは町を守ることに等しいのです。ある意味、町として一つの正しい在り方かもしれませんな」
「それじゃあ……もし仮にブドウに効果が無くなったとしても……」
「そうです。彼らはきっとこの先も守り続けていくことでしょう」
男性はまた厳しい目つきに戻ると、寿美香へ今一度問う。
「数日間滞在していたにも関わらず、何の把握もできなかった無知なあなたがたに、今こうして丁寧に教えて差し上げました。して、今後どのようになさるおつもりで?」
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