21.それは小さく、けれども偉大な応援
水奈は、青々と茂っているブドウの木々の間を駆け抜けて寿美香たちのもとへと急いだ。
おじいさんは駆け寄ってきた水奈の姿を見つけると、嬉しそうに迎え入れてくれた。昨日は食事をちゃんと取れたのか、屋根のあるところで眠れたのか、これから帰る当てはあるのかなど。水奈と別れてからというもの、おじいさんは水奈のことが気になって気になって仕方がなかったらしい。一人で行かせてしまったことをとても後悔していたと話す。
寿美香を伝いその事実を聞いた水奈は、何だか照れ臭く顔がほころんでいた。水奈の心配は杞憂だったようだ。おじいさんが気にしてくれたことはここにいる寿美香がすべて解決してくれましたと水奈は説明した。
するとおじいさんは寿美香に手を差し伸べた。
「私の代わりにこの子を救ってくれてありがとう。あなたは日本からやって来た女神様だね」
思いがけない感謝の言葉に寿美香は照れながらもおじいさんと握手を交わす。
この町を訪れてからというもの、散々な目に合い続けてきた寿美香。そんなフランス人を嫌いになってしまう一歩手前まできていた彼女にとって、この出会いは実に幸いな出来事だったに違いない。
寿美香は、自分の名前を名乗るよりもまず先に水奈の名前を教えてあげた。きっとおじいさんは知りたがっていただろうと思っての気遣いだった。
おじいさんの名前はジェレミーといって、このブドウ畑で奥さんと一緒に農家を営んでいるということだった。奥さんは今、町へ買い物に行っているらしかった。
水奈から聞いていた以上に優しかったジェレミーさん。彼を巻き込みたくはないと例の話を切り出しづらくなってしまった寿美香は、このままなごやかに談笑をしていたいと思った。水奈はといえば二人の会話を聞きながら微笑んだりブドウ畑を眺めたりしていた。話すよう促してこないところを見るに、どうやら水奈も寿美香と同じ気持ちでいるらしかった。
けれど、そうも言ってはいられない。ジャーナリストを目指すうえで避けて通れない道は当然あるわけで。自身の抵抗を振り払わなければいけない時もきっとあるだろうから。
「あたし、珍しいブドウがこの町にあるって聞いてやって来たんです。ジェレミーさんは何かご存知、ないですか?」
寿美香は緊張した面持ちで質問する。水奈も彼女の雰囲気を感じ取り例の話を投げかけたことを察した。
ジェレミーさんは特に驚いた様子もなく同じ表情のままだ。まるでこの質問がくることを前もって知っていたかのように落ち着いているのだ。
「この町に住む者なら誰しもが知っていることだよ。もちろん私もね」
ジェレミーさんはゆっくりと口を開いた。彼は視線を寿美香から一旦外して辺りを見回す。そして誰もいないことを確認した後、再び口を開いた。
「寿美香さんが探しているブドウは確かにこの町に存在している。大事に守られてるんだ」
彼の言葉で寿美香の目が輝き出した。
「もしかして同じ質問を他の人にもしたのかな?」
「いろんな人に。大抵は知らないって回答をもらいました。冷たくあしらわれたこともありましたし」
寿美香は市役所の件を思い出し苦い顔をする。
「うん。嫌な思いをしたんだろうね。この町を代表してなんて、私は偉くもなんでもないが、謝らせてほしい。すまなかった」
そう言ってジェレミーさんは帽子を取り、寿美香と水奈に頭を下げた。
驚く水奈の横で、寿美香が慌ててそれを手で制した。
「ジェレミーさん、顔をあげてくださいってば。嫌な思いも確かにしましたけど、あなたみたいに優しい方に会えて嬉しくって。もうちょっと頑張ろうかなって思えましたし。それにこの町の市長もとってもいい人でしたよ」
「市長! 本当かい? よく会わしてくれたものだね。普通なら受付で断られるだろうに」
「スムーズに面会させてくれました、よ」
無断で侵入したなど相手が誰であれ言えるはずもない。暑さとはまた異なる意味の汗が寿美香のほおを伝った。余計なことを言ってしまったようだ。寿美香の悪い癖である。
「運が良かったのかもしれないね。それで市長さんはなんと言っていたのかな?」
「ブドウのことを教えることはできない。そして早いうちにこの町を出なさいと」
「ふむ」
市長の言葉を聞き、ジェレミーさんはうつむいて何かを思案している様子だった。
寿美香は水奈のほうへ振り返ると、だめかもねと顔でジェスチャーした。
それに対し水奈は苦笑いでこたえる。
ジェレミーさんが顔を上げる。
「寿美香さん。あなたはなぜあのブドウを探しているんだい?」
彼の表情は真剣だった。
ジェレミーさんになら話してもいいと、寿美香は躊躇することなく話し始めた。
「あたしの友だちに教えてもらいました。ある情報誌に面白い記事があるって。そこにはフランスに不思議なブドウを収穫している町があると書かれていました。あたしはすぐに食いつきました。一つは、……ブ、ブドウの、効果に対して興味を持ったこと……。そ、そっちはほんのちょっとだけですよ! あたしが本当にそそられたのはその記事の内容が確証を得ていないものであり、噂のレベルから脱していないところにありました」
ジェレミーさんは黙って聞いてくれている。
「ジャーナリストを目指しているあたしにとって、その噂が真実であると証明できればそれは大きな一歩になるかもしれない。そう思いました。……だけど、軽く、考えていたんだと思います。このあたしならこのくらい難なくこなせると。でも今日で四日目です。有力な情報をまだ手に入れていません。だから」
「だから私に会いに来てくれたんだね」
ジェレミーさんはにこやかにそう言った。
寿美香は小さく頷く。
「それでは市長や町のみんなに感謝しなくては。もしも彼らが寿美香さんにブドウの情報を話していたら、ここで君たちと会うことはできなかったかもしれないからね」
ジェレミーさんは水奈にも目を向ける。
彼は、日本人二人の肩にそっと手を置いた。
「だけどもわたしも町の人間なんだ。みんなを裏切ることはできないんだ。すまないね」
ゆっくりとした丁寧な言葉から申し訳なさがぐっと伝わってくる。
またしても彼は二人に頭を下げた。ジェレミーさんが初めて二人に見せる悲しい目。
二人は遠回しに情報の提供を断られたのだった。
返事を聞いた寿美香は微笑むことができない。しかし、精一杯に頭を下げた。
「こちらこそごめんなさい。ジェレミーさんを巻き込んでしまって」
「君たちが気にすることはないさ。それでこれからどうするのかな?」
「まだ分かりません。水奈と相談して決めないと。けれど、諦めてません。あたしはまだここで調査を続けるつもりです! 彼女には申し訳ないですけど」
寿美香は水奈をちらりと見た。
「ふむ。私が言えた義理ではないが、この状況では難しいのではないかな」
「はい。町全体に隠し事をされたら聞き込みすら叶いませんから。ほんと大変です」
ジェレミーさんは何も言えなかった。ただ、寿美香の目がまだ死んでないことを確認し、彼は安心したのだった。
水奈に話が終わったことを伝え、三人はお別れの挨拶をする。
「メルシー」
水奈は前に出てジェレミーさんと固い握手を交わし、覚えたてのフランス語でお礼を言った。すると彼は水奈を抱きしめた。
「心強い味方ができてよかったね。大事にしなさい」
ジェレミーさんが耳元でささやいたその言葉は水奈にもきっと届いたはずである。その証拠に水奈は頷いたのだから。
つづいて寿美香が握手を交わす。
「ジェレミーさん、安心してください。水奈はきっとこのあたしが日本へ連れて帰ります。色々とありがとうございました。またどこかで」
二人は町へ戻るためジェレミーさんに背を向け歩き出し始める。名残惜しいがゆえに二人の歩く速度は遅く重たいものであった。
「水奈、察してると思うけどジェレミーさんからは」
「分かってる。いいんだよ、これで」
あんな優しい人にこれ以上迷惑をかけたくないものと水奈は微笑んだ。
寿美香は息を大きく吐いた。
ああ、もう、ほんとにこの子って……。
「ふふっ、ならいいけど。それでこれからのことなんだけど」
と寿美香が切り出したところで、二人の後ろから声がした。それは紛れもなくジェレミーさんの声。
寿美香は少し距離が離れてしまった彼に声を張ってたずねる。
「どうしたんですかー?」
「寿美香さん。ブドウの秘密を解き明かしたら君はどうする?」
ぎりぎり聞き取れる音量で彼の声が返ってきた。
寿美香は、はっとした。
そういえばそうよ。秘密を解き明かしたらそのあとは? あたしとしたことが、まったく考えてなかった。
ジェレミーさんの的を得た質問に戸惑いつつも、寿美香は口に両手を添えて返事をすることにした。
「正直、分かりませーん。決めてませんでしたー。…………ですがー、あたしの正しいと思うことをしたいですー」
彼からの返答はない。彼女の大きな声は彼に届いているはずである。
ジェレミーさんは下を向いている。あれは何かを思案している時のポーズだと寿美香はすぐに分かった。だからジェレミーさんからの言葉をしばらく待つことにした。
「ブドウは、あのブドウは全員にいつも見張られている。だからあきらめなさい。私から教えることは何もないよ」
そう言ってジェレミーさんは反対方向を向きそのまま歩き去って行った。
寿美香は彼の姿が見えなくなるまで見送った。
ジェレミーさん、ありがとうございます。
寿美香は、待たせてしまった水奈に急いで駆け寄ると、先ほど彼からもらった言葉を早速伝えることにした。
寿美香の話を聞きながら、水奈は先ほど三人で話し合っていた場所あたりに一瞬だけ人影を見た気がした。
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