考古学博物館への招待状

はるかい

1C.太陽みたいな少女と不思議なブドウ

プロローグ

置き逃げ

「……う~……あ~」


 季節は夏。カラッとした暑さの中、うめき声をあげながら町中を歩く日本人が一人。

 目は虚ろで、背中は曲がり、手をだらりと下げながら表を徘徊しているその姿は、さながら映画に出てくる飢えたゾンビのようだった。せっかくの美しいルックスが台無しである。

 


 交通事故はここ数年無く、窃盗事件は年に一回の頻度でしか起こらない平和なこの町で、あまりにそのゾンビは存在が浮いていた。

 通り過ぎる人が例外なく視線を向けている。


 普段なら絶対に人前で醜態をさらさないはずのその者は、今はそんなことどうでもいいと思っていた。人間、切羽詰まると日常のしがらみがバカバカしく感じられ、惨めな気持ちになるのか、なるほど、と一人で苦笑い。


 怪しすぎた。


 しかし、こんな状態になってしまったのにも事情があるのだ。それはそれはかわいそうな、同情したくなる訳があるのだった。


 喉の渇きと空腹感とで身体は黄色信号を発し始めていた。華奢な身体がさらにより一層小さく見えてしまっている。うめき声が自然と出てしまうのも仕方がないことなのかもしれない。とにかく身体が水と食料を一刻も早くと欲している。


 立ち止まり、目をゴシゴシと擦る。目にゴミが入ったわけではないようだ。どうやら視界がぼやけてきたらしい。本格的にまずい状態なのかもしれない。


 周りに助けを請いたいのはやまやまだったが、道行く人みな外国人。いや、正確にはそのゾンビがここでは外国人に当たるわけなのだが。

 そういうわけで、周りに助けを請うことは、それはもう難易度の高いことだった。


 望んでもいないのに何でこんな所に来てしまったのだろうか。早く家に、日本に帰りたいと願う。

 ゾンビは、自分をこんな目に合わせたであろう犯人に思いを馳せる。

 この状況をあらかた予測し、愉快に笑っているやつの顔がはっきりと容易に思い浮かんだ。


 日本へ無事に帰ることができたら、必ず復讐をしよう。そう胸に誓い、歩みを再開した。


 そのゾンビこと、生きる屍の名前は、火向井水奈(ひむかい みずな)。


 現在、ピンチの真っ只中にあった。



 *



 とある家の一室。


 季節柄今は眠りについてしまったレンガ造りの暖炉。アンティーク感いっぱいの大きな茶色い地球儀。タイトルの書かれていない怪しげな分厚い本がぴっちりと収められた本棚。壁には年代もの振り子時計の他に、不気味な仮面がずらりとかけられていた。それらの表情はどれも怒っているのか笑っているのか分からない何とも言えない表情をしていた。


 どこぞの博物館かと思うこの部屋の中央には、大きな木のテーブルが置いてある。そしてそれを挟むかたちで大人二人が余裕で座れるほどの緑色のソファが対になって置かれていた。


 テーブルの上ではコーヒーが良い香りを漂わせ、この場所により一層の落ち着きを与えている。


 人工的な明るさとは違った、まるで火が灯っているかのようなオレンジ色のランプがこの部屋をほのかに照らしている。


 もしもこの部屋に瞬間移動でやって来れる人がいたとすれば、その人はここが日本だとはまず思わないことだろう。だが、この部屋は間違いなく日本に存在している。


 そして、今この部屋には二人の日本人がおり、それぞれ反対側のソファに座っていた。


 会話はない。コーヒーだけが減っていく。お互いリラックスムード。両者の間に緊張感など皆無だった。


 一人がコーヒーカップをテーブルに戻し、心地良いその沈黙を破る。

「なあ水奈。お前も晴れて大学が決まったことだし、残りの高校生活は長い夏休みみたいなものだよな?」

 背中をソファから離し、前屈みになって語りかける中年の男性。  

「うん、まあ。これから受験する生徒は予備校通ってて今はほとんど学校来てないし。私と同じく推薦で決まってる人は、例外なく遊びまくってるからね。どちらかと言えば、休みに近いかも」

と、ソファにだらんと背中を預けたままの水奈と呼ばれた若者。

「そうか、よかった。なら相談なんだが。近いうち、学校を休んで外国へ旅行に行ってみないか?」

「え? 今更いいってば。卒業旅行ってことで春に友達と海外へ行くし」

「いやいやいや、水奈、遠慮することはない。行ったほうがいいぞ、海外一人旅!」

「一人旅? 家族旅行じゃないの?」

 水奈は少し驚きつつ、手に持っていたコーヒーカップをテーブルに置いた。


「そう、一人で行くんだ。お前は将来考古学者になるんだから。今のうちに大変な思いをしたほうが後々いいんだ」

「あのね、大変な思いって。今度入学する大学がアメリカにあるってだけでもう私は十分苦労するでしょう。週四で英会話、おまけに毎日ジム通い。夏休みにしちゃえらく忙しいんですけど」

 水奈は、それら習い事を押し付けた張本人である自分の父親を半目で見つめる。


「よっ、よし分かった。旅行から帰ったら特別に習い事をそれぞれ週一回ずつ削ってやろう。どうだ、ほら、それなら行ってくれるか?」


 普段から輝きを放っている目をより一層キラキラと明るくさせながら、水奈に迫る父親がそこにいた。年の割に落ち着いた雰囲気がまったくなく、むしろその姿は無邪気な子供を連想させるほどだった。


「習い事は今まで通りでいいってば。おかげで英語もだいぶ話せるようになったし。けど、一人旅は嫌なの」

「え~、頼むよ。絶対いい経験になるはずだからさ。俺が水奈の年の頃なんて既に世界中をひとりで駆け回ってたんだぞ。いや~あの時は本当楽しかった」

「その話は何度も聞いたよ。……うん、ありがと。でも、卒業して留学するまではできるだけ日本に居たいんだよ。ねっ?」

「う~ん。確かに水奈の気持ちも分かるけどな。でもな、…………もう買ってあるんだよ」

「何を?」


 今まで威勢の良かった父親の声が極端に小さくなった。

「あのー……、そのー、券。うん、券だよ」

「何の券?」

「……飛行機の、チケット。実はもう買って席を取ってあるんだ!」

「てへっ、みたいな顔するな、気持ち悪い! っていうか人の都合も聞かず何勝手に動いてんの!」

「昨日な、ふと思いついたんだよ。なにせ思い立ったが吉日、が俺のモットーだからな。あははっ」


 水奈はソファから腰を上げた。両手でテーブルをばんっと叩きつけると、勢い良く上半身を前に乗り出した。その振動でコーヒーがカップからこぼれてしまったが、今の二人の目にはそんなもの映ってはいない。


「笑うな! で、出発はいつなの!」

「……トゥモロー」

「明日! 馬鹿じゃないの、信じられない!」


 そう言い放ち部屋から出て行こうとする水奈を慌てて父親が腕を掴み引き留める。


「相談せず勝手に決めたことは謝る、悪かった。だけどおまえのためをだな、ちゃんと考え」

「何でもおまえのためだと言えば許されると思ってるでしょ。まったく」

「俺も母さんも、水奈のことが心配なんだよ。未経験のまま、あの大学に行かせるのが。それに、お前の姉さんたちも心配してるぞ」

「お姉ちゃんたちを話題に出さないで! ずるい!」

「でもな、水奈」

「あーもう、しつっこい!」

 掴まれていた腕を乱暴に振り払うと、普段の優しく温和な顔からは想像もつかないようなきつい目つきで水奈は断言する。


「何を言われようが、ぜえったいに、い、き、ま、せ、ん!」


 水奈は、怒りを露わにしてわざと大きな音を立てながら部屋を出る。すかさず父親が後を追いかけ、水奈の背中に声をかける。


「それにだ。お前の能力を伸ばすのにも海外はうってつけの環境だと思うんだ」

「何度も言ってるけど、伸ばす気なんてない。使いたくて使うわけじゃない。……こんな能力むしろ」


「なあ、水奈。よく聞きなさい。それは誰しもが持てるものじゃない。お前は恵まれている。確実に。そして、それを生かすかどうかはお前次第だ。だがな、それを判断するにはまだ若過ぎる。もう少し踏み込んでみて、それから岐路を決めてみなさい。それでも遅くはないのだから」


 父親の珍しい真面目な物言いに水奈はたじろいでしまった。その感情を押し隠し、水奈は無言のまま自室へと戻った。


 その日、それ以上二人が会話をすることはなかった。



 *



 朝、水奈が目覚めて最初に見たものは、辺り一面に広がる畑だった。

 目の前からずーっと奥のほうまで緑色の景色が続いている。


「………………」


 朝の新鮮な外の空気は、非常に澄んでいる。周りには誰もいない。小鳥の鳴き声と風のそよぐ音だけが聞こえてくる。首もとまで伸びた栗色の髪の毛が風で優しく横に揺れる。

 気持ちの良い穏やかな朝だ。


 目覚めは非常にスムーズだったため、瞬時に頭を働かせることができた。

 おかげで、どうやら今まで私は畑の中の小道に置かれた木のベンチで寝ていたようだ、と判断することができた。


「……えぇ~」


 今にも泣き出してしまいそうな気持ちを必死に抑え、ベンチから立ち上がり、そしてまたなぜか座り直してしまう。


 期待してはいけないと思いつつもほほをつねってみる。

「ううっ」

顔だけでなく、心まで痛い。


 せっかく頭が冴えているのだからその頭を使わない手はない。水奈は必死に昨晩の出来事を思い出そうと試みる。

「昨日はあまり寝むれなくて、たしか遅くまで本を読んでたんだよ。……あっ、そうだ、そしたらお母さんが紅茶を持って来てくれたんだ。それを、飲んで、……その後どうしたっけ?」

 紅茶を飲みながら母親と会話していたところまでは覚えていたが、その後の記憶が一切抜け落ちていた。


 眉が寄り、口がとんがってきて、自然と難しい顔になっていく。

「誘拐にしたって監禁されてるわけじゃないし。置き逃げ? それは新しい。って感心してる場合じゃない」


 起きたら知らない土地で寝ていたという、映画なら当たり前、現実なら異常なこの状況に、水奈はまだ信じられないでいた。いや、信じたくなかったのだ。


「というか、まずはここがどこなのか現在地を把握しないといけない」

 そう言って立ち上がり、周りを今一度ゆっくりと見回してみる。


「ブドウだ」


 よく観察をしてみると畑にはブドウが成っていた。ブドウの木は膨大な数にも限らず、すべてが規則正しく並んで植えられている。それは一種の芸術品のように感じてしまう風景だった。


 水奈から向かって左には、目の前のブドウ畑がコピー&ペーストされたかのようにずーっと続いている。


 一方右方向には、ブドウ畑のそのまた向こうに民家らしき建物が数多く見える。屋根はオレンジ色や赤色など暖色系で占められており、その町らしきものには一種の統一感が感じられた。

 水奈には、綺麗な町並みだと思えた。


 遠くを見つめる水奈の目に、あるものが映った。それはベンチから三十メートルほど離れたところに立っている看板だった。そこには子供たちがブドウを持って笑っている絵が描かれていた。随分前に置かれたものなのだろうか、色褪せていて所々が剥げていた。

 その絵には大きくこう書かれていた。


『よ※こそ、フランスで一番の巨※畑へ』


 目を見開き、その文字を見つめ固まる。水奈の顔がだんだんと歪んでいく。


「あ、……えっと……」

 顔が引きつるってこういうことなんだと考える余裕もなかった。


「嘘だよ、こんなの。ないないないない! 外国って、海外って、ありえない!」

 体温が急激に上昇し、じわりと顔から汗が勝手に浮き出てきた。心臓は動きを早め、外まで聞こえるのではないかと思えるほど、ドックンドックンと大きな音を鳴らし始める。 


「ははっ、フランス~? 実は日本にあるフランス村でしたっていうオチじゃないのかな。うんきっとそう!」

 水奈にしては珍しくポジティブに考え、とりあえず座って落ち着いてみることにした。


 と、今まで自分が寝ていたベンチの上に茶色い古びたリュックが置かれていたことに今さら水奈は気がついた。もしかしたら何か役に立つものが入っているかもしれないと慌てて中身を開けてみる。

 中から出てきたものは、財布、懐中電灯、大きめの黒い布、パスポートのみだった。

「財布は私のじゃないな、でもお札が何十枚も入ってるみたい。よかった。お金の心配はしなくて済みそう。懐中電灯は、……うん、ちゃんとライト付くね。ってこの布は何に使えばいいの? それとパスポート……。これ、私のだ」

パスポートをめくろうとしたその時、


「ボンジュール」

突然、横から声がした。


 水奈が驚いて振り向いてみると、初老の男性が一人立っていた。彼は麦わら帽子をかぶり、半袖のシャツに緑色のオーバーオールを履いていた。隣には荷車が置かれており、そこにはこの広い畑のどこかで収穫してきたのであろうたくさんのブドウが積まれていた。


 地元の人に違いないと判断した水奈は、緊張した面持ちではあるが恐る恐る問うてみた。

「おはようございます。変な話で笑われるかもしれませんけど。ここがどこなのか教えてもらえませんか?」


 どうか、どうか日本語で返答をしてください、そしてフランス村へようこそと言ってください、と願う。


「◇#〒■Α&%」


 おじいさんの言葉が分からない。


 水奈の淡い期待は、はかなくも砕け散った。


「いっ、いっ、いやああああああ!」


 ようこそ、フランスへ。

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