11.ほどほどな幸運属性
市役所の内部はやけに静かだった。一階に事務員はいないのだろうか。憲兵隊の姿も見当たらない。どうやら彼らは、市役所の外で見張りをするよう命じられているらしい。それならば水奈にとっては好都合だった。
白い壁がガラスから入ってくる日光を反射し、廊下を明るく照らしている。どうりで壁にかけられた照明の灯りが弱く感じるわけである。今日みたいに天気の良い日中には点灯する必要はないのかもしれない。あちこちにあるこげ茶色のドアは、どれも大きくてなおかつ偉そうな印象を受けた。そこから繋がる一つ一つの部屋がどれだけ豪華なものなのかをつい想像させてしまうほどなのだ。天井にはお約束のシャンデリアまで完備してある。
外と同じく内装にもお洒落に気を配り、そしてお金をかけた造りとなっていた。
水奈はパンフレットに載っていたフロア図のことを思い出す。建物の正面または裏から見て、市役所は横に伸びた長方形の形をしている。そのためテラスから入ると真っ正面には先ほど大変お世話になった受付が向こう側に見ることができた。
水奈はしゃがみ込み、あらためて周りに人の気配が無いかどうか、視覚と聴覚を研ぎ澄まし探ってみる。
この階には、誰もいない。水奈はすぐにそう判断した。特にすべての部屋を回って確かめたわけではない。
寿美香は直感に長けているのに対し、水奈は運に長けているところがあった。
水奈は、自身が人よりも少しだけ運の良いほうであると幼い頃から自覚していた。忍び込んだのは私なんだ、だからきっと誰もいないだろう、という安心感のようなものを抱いていた。
けれども、その運が長続きするほど水奈の運も強くはない。上の階には必ず人がいるだろうから見つかってしまう危険性は相変わらず高い。憲兵隊がこちらの侵入に気がつくまでにまだ時間はあるだろうが、余裕はやはりない。寿美香に話した通り、行動と判断の早さがものをいう作戦だ。捕まる前に市長に会う。それだけで良いのだから。
今考えなければいけないことは、市長がどこにいるのかということだけ。
パンフレットには、一階から三階までのフロア図しか載っていなかった。おそらく四階より上は事務員以外立ち入り禁止ということなのだろう。となると市長の部屋も四階以上だと考えたほうが無難だ。
問題なのは市長室が四階から六階、どの階に存在するのかというところにある。普通に考えたら答えは最上階か。眺めが良く、町の様子が良く分かり、来客にも喜ばれる場所だ。
ただし、それも絶対とも言い切れない。あくまでも予想であって、一番可能性があるのは六階、というだけだった。もしも現市長が事務員の仕事ぶりを常に見ていたいだとか、または部下たちとコミュニケーションを取りたいという思考を持った人物ならば、四階や五階だってあり得てしまう。きっと事務員と同じ階に自分の部屋を構えたいと思うはずだ。
などと、時間も無いくせになかなか判断できないでいた。考え過ぎてしまうところが水奈の悪い癖だった。
水奈はようやく動き始める。目指すは六階だ。
今の水奈には市長室の位置を掴める推理力もなければ窮地に迫った時の判断力にも乏しい。頼れるのはやはり自分の運だけだった。
再度頭の中にパンフレットのフロア図を思い浮かべる。上に行くためにはエレベーターと階段、両方の選択ができるはずだ。エレベーターはテラスから入って廊下を右に行った先の突き当たりにある。階段はテラスと受付の間にあり、建物の中心に位置していた。水奈は迷わず階段の方へと早足で向かう。
階段のある空間は一階から六階まで吹き抜けになっていた。縦に長いこの空間の中を、階段が壁沿いにらせん状となって備え付けられていた。階段はドアの色をもっと濃くしたような黒に限りなく近い茶色であり、対して壁は漂白剤を使ったように真っ白だった。メリハリの効いた色使いが階段を利用する人の気を自然と引き締める。
階段を上がる前に、水奈は上を見上げた。誰もいないことを今一度確認し、一段目を踏み出す。手すりに捕まりながら、できるだけ音をたてないように細心の注意を払っていく。
二階の踊り場に着いた。上を目指すため、足は止めない。
三階に到着した。フロアには入らずに踊り場からこっそり廊下を覗いてみるが誰もいなかった。しかし、人の声は微かだが聞こえる。室内には誰かしらいるのだろう。ドアからは誰も出てこないので、ほっとして足をまた上へと進ませる。
四階にたどり着いた。この頃になると上だけでなく下にも意識を向けながら進まないといけなかった。誰かが上がってくる可能性があるからだ。
しかし、誰とも出くわすこともなく、五階へと到達した。ここまで来ればあとはもう少し。はやる気持ちを押さえ、けれども気持ち早めの足取りで階段を上がっていく。
最上階である六階の床を踏んだ。一段と息を殺した。そして周囲を伺う。
気づくと、窓から差す太陽の光がオレンジ色に変わっていた。
外はもうじき暗くなるだろう。
水奈が階段の踊り場を後にし、六階のフロア内へ進もうとしたところで、思わず足に急ブレーキがかかった。それは、他の階と比べて恐ろしいくらいに静かだったからだ。物音一つ聞こえない。無音だからこその違和感。その静けさは、この階に人がいないのかもしれないと思わせるほどだ。
だが、それならば逆に都合が良いのかもしれない。おかげで邪魔が入らずに市長室を探すことができるのだ。恐がることなんて何もない。そんなふうに考えることができるポジティブな水奈は、なかなかに珍しかった。
道は左右に分かれている。左にはドアが一つとお手洗いがある。右には長い廊下が続いていて、左側はすべて例のガラス張りの壁、右側にはドアがいくつも並んでいる。
水奈は勘で右へと進んだ。
ガラス越しに町の風景が見える。さすがに六階ともなると地上とは眺めがずいぶん異なってくる。町の中心に位置する教会が一際大きく感じる。また、高い場所から見るこの町独特の坂道の多さは、建物たちがまるで波の上を漂いうねっているかのように見せた。それは夕暮れの海の中、遠くにはっきりと見える教会の島へと船で向かっているみたいに思えた。壮観の一言だった。
景色を眺めながら、水奈は運の力は侮れないものだと感じていた。あらためて自身の幸運属性に感謝をしなければいけない。ここまでスムーズにそして安全に来ることができたのだ。運とはいえども、私もやればできるじゃないかと少しだけ自信がついた水奈だった。
夕日に染まった水奈の顔はなんだか嬉しそうで。
あとは市長室を探し当て、肝心の市長に会うだけである。景色から目を離し、よし、と心の中でつぶやき気合を入れる。
と、水奈の肩にそっと手が置かれた。
「っ!」
声が発せない。
水奈は、ホラー映画の主人公のように非常にゆっくりとぎこちなく後ろを振り返る。
そこに立っていたのは、五十代くらいの男性だった。
ピンクのポロシャツ姿にグレーのハーフパンツ。今からゴルフに行けるような服装をしていた。おまけに手にはティーポットを持っていた。
二人とも突っ立ったままである。両者に違いがあるとすればそれは表情だった。水奈は見るからに青ざめ、男性の方は不思議そうにきょとんとしていた。
私の運なんて所詮こんなものなのかと、水奈は思う。ここまで来れても職員に見つかってしまっては意味がない。この男性から逃げられたとしても、もう市長を探すことはできない。もうお終いである。逃げるわけでもなく、ただ呆然と目の前の男性を見つめる。先ほどまでの前向きな水奈は消え去り、元のネガティブな水奈に戻ってしまった。
寿美香には、いろいろと悪いことしちゃった。寿美香を囮にしてしまったし、それなのに市長も見つけられないまま終わるなんて。……謝ったら、許してく。
「みずなああああ!」
突如、水奈が先ほど上がってきた階段の方から叫び声があがった。その声は誰が発したものなのか、水奈にはすぐ分かった。
「寿美香!」
息を切らした寿美香がそこに立っていた。それはもう、鬼の形相をしていた。
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