第4章 しかし対立

第16話

 作業は順調に進み、夜になるまでに、僕は追加のテキストを貰うことができた。量ではなく質によって報酬が支払われるから、多くをこなして損はない。追加で与えられたテキストも途中まで進め、半分くらいまで翻訳したところで今日の勤務時間は終了した。


 例によって、テーブルに夕飯が届けられる。今回も一人分の食事だった。昨日は午後八時に料理が運ばれてきたが、今日は一時間早い午後七時だった。昨日は、僕たちが到着するのが遅かったから、それに合わせてくれたのだろう。


「とりあえず、やるべきことは分かった」夕飯を食べながら僕は言った。今晩はホワイトシチューだった。鮭が入っている。


「よかったじゃん」リィルが反応する。


「でも……、なんだか、仕事をしている気がしない。自分の家でやっている方が、サボろうと思えばサボれるから、緊張感があるね。ここでは、仕事しかすることがないから……」


「あとで、外に行くからね」


「ああ、そうだね」僕は頷く。結局、彼女との約束はまだ果たせていなかった。「じゃあ、これを食べ終わったら行こう」


 室内はとても快適な環境が維持されている。空調や照明は手動でも調節できるが、今の設定のままで特に問題はなかった。僕は割と環境の影響を受ける方だが、この施設の調節は完璧だ。仕事をしているときも、まったく不快に感じることはなかった。


 二十分ほどで夕飯を食べ終え、それから十分くらい休憩して、僕たちは部屋の外に出た。そのまま廊下を左手に進み、階段を上がってロビーに出る。そこで、僕たちはロトがいるのを見つけた。彼はテーブルと椅子が並べられたラウンジに陣取り、この施設の人間ではない誰かと話している。施設の人間は制服を身に着けているので、部外者か否かは服装を見れば分かる。


 彼は僕たちに気づき、軽く視線を向けて微笑んだ。僕も一応頭を下げておく。二人の会話は聞こえなかったが、事務的なことを話しているのは分かった。


 扉が自動的に開き、二人揃って建物の外に足を踏み出す。


 久し振りの屋外だった。


 背後で扉が閉まり、僕たちは外部の空気に完全に晒される。


 振り返ると、ドームの上に強い光が灯っていた。それは一定の速度で回転している。今晩も灯台の役目を全うしているようだ。


「ちょっと、寒いね」リィルが言った。「上着を持ってくればよかった」


「まあ、でも、いいよ、このままで」僕は話す。「たまには涼しすぎるのも悪くない」


「寒いと、涼しいの違いは?」


「ク活用か、シク活用の違いかな」


 ドーム状の建物の裏側に周ると、そこに木製の階段があった。階段は蛇行しながら下まで続いていて、その先に砂浜があるのが見える。僕たちは階段を下り、砂浜を散歩することにした。


 ずっと向こうまで暗黒の海が続いている。潮の香りが微かにした。周期的に波の音が聞こえ、灯台の明かりがそれに呼応するように前方を照らす。今は、空は空ではなく、宇宙として認識できそうだった。灯台以外に周囲に光がないから、星がかなりはっきりと見える。


 砂浜の砂は、多少水気を帯びていたが、それでも大理石のように乾燥していた。


「気持ちいいね」リィルが呟く。


「うん、たしかに」


「海に来たの、久し振りかも」


「そうなの? 連れていってもらったことは?」


「うーん、どうかな……。必要のないことは、記憶に残らないようになっているみたい」


「それは正常だよ」


「海ってさ、どこまで続いているの?」リィルは歩きながら質問する。「地球は本当に丸いの?」


「一般的にはそう認識されているけど、確認したことはないから、分からない」


「月は本当に存在する?」


 僕は顔を上げて周囲を確認する。


「今日は見えないから、存在しないかもしれない」


 リィルは笑った。


 遠くの方に砂浜の終わりが見えたが、かなり遠いので、僕たちは途中で引き返した。終着点の先には山が連なっている。反対側も同様で、僕たちがいる施設は左手の山に程近い場所に位置していた。


 先ほど下りてきた階段の傍まで戻り、二人並んで適当な岩に腰かける。


 ときどき、灯台の明かりが僕たちを照らした。


「これから、どうするの?」


 リィルが尋ねる。


「どうするって、何が?」


「この仕事が終わったら、次は何をするの?」


「ああ、そういうこと……。さあ、どうするのかな。依頼はいくらでもあるけど、何もしないという選択肢もないわけじゃない。でも、たぶん、何かしらの仕事は引き受けるだろうね。そうしないと、生きていけないから……」


「まだ、生き続けるつもり?」


 リィルはこちらを向く。


「もちろん」僕は言った。「君は、どうしたいの?」


「うーん、どうしたいのかなあ……」彼女はまた前方に向き直った。「正直に言って、どうなってもいいような気がして……。……死んでもいいかな、とさえ思う」


「それは、誰だって同じだ」


「そう?」


「自覚していないだけだよ」


「君は自覚している?」


「自覚しかけてはいるけど、しきれてはいない」


「明日死ぬとしたら、何をする?」


「今すぐ家に帰って、冷蔵庫の中身を空にする」


「それ、なかなかいいね。グッドアイデア」


「そうだろう?」僕は言った。「だからこそ、今日の朝、二人分の料理が届けられたときは、困ったんだ」


「それ、関係なくない?」


「その通り」僕は言った。「関係はない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る