第5章 そこで説明

第21話

 あと少しで作業が一段落しそうだったので、リィルの話を聞く前に、暫くの間僕はキーを叩き続けた。そろそろ指が疲れてきたが、疲れても折れるわけではない。折れるまで叩き続けようとは思わないが、まあ、折れたら折れたで仕方がないとも思った。


 十五分くらいして、とりあえず、テキストのだいたいの翻訳が終わった。時刻を確認すると、針は午前十一時半を指している。あと三十分もすれば昼食になるから、僕は少し早めに休憩することにした。


「それで? さっきの話は?」


 デバイスの蓋を閉じて、僕はリィルに質問した。見ると、彼女は自分の手を使って訳の分からない形を作っている。それが彼女の暇潰しのようだ。


「あ、終わった?」リィルは言った。「よし、では、話そう」


「威勢がいいね」


 リィルの話によると、廊下を右手に進み、そこで見つけた休憩室に入ろうとしたところ、声が聞こえたので、一度立ち止まって室内を覗いてみたら、そこにサラがいるのを見つけたとのことだ。サラのほかには誰もいない。それなのに、サラは確かに誰かと会話をしている。リィル曰く、サラは天井に顔を向けていたらしい。話口調は事務的なもので、談笑しているような感じではなかった。そして、意を決してリィルが休憩室の中に入ると、サラは途端に話すのをやめてしまった。リィルが軽く頭を下げると、サラもそれに応じたが、彼女が飲み物を買っている間、リィルはずっとサラに見られていた。


「へえ……」


 リィルの話を聞き終えて、僕は適当に相槌を打った。


「ね、凄いでしょう? もう、驚きでしょう?」


「うーん、どうかな……」


「どうかなって……。だって、天井に向かって話していたんだよ」


「ただの独り言かもしれないじゃないか」


「いや、そんなはずはないって」リィルは譲らない。まあ、普通はそう考えるのが自然だろう。「あれは、明らかに誰かと話していた。独り言なんかじゃない。それは分かる。自分に言い聞かせているような感じじゃなかったし」


「自分の中にいる、もう一人の自分と話していた、という可能性は?」


「いや、ないでしょ、そんなの……」


「ないとはいえないね。僕はよくするよ、そういうこと」


「わざわざ口に出してしないでしょう?」


「さあ、どうかな」僕は目を逸らす。「自分では声を出しているつもりなんてないかもしれないし」


「あのさ、それ、冗談で言っているんだよね?」


「どう受け止めるかは、君次第だ」


「そんな……」


「今のは冗談だよ」僕は笑った。「よく見極めよう」


 リィルは膨れ面になり、僕を激しく睨みつける。こういう表情をしている彼女が、一番キュートではないか、と僕は思う。


「まあ、それじゃあ、今は君の言う通りだとしよう」彼女のレーザー光線を避けて、僕は言った。「サラは、確かに誰かと話していた。しかし、その対象は、さすがに天井そのものではないだろう。となると、どんな可能性が考えられると思う?」


「天井にスピーカーとマイクがあって、それを通して会話をしていた」


「うん、それしかないだろうね」


「やっぱり……。でも、どうして、そんな装置が休憩室にあるのかな? それなら、誰でも使えることになるよね? 私が休憩室に入ったとき、彼女は話すのをやめたんだから、何か、聞かれたらまずいことを話していたんだと思うけど……。何だろう……」


「しかし、人は、プライベートな内容は、それがどんなものであろうと、他人には聞かれたくないものだよ」


「それって……、重要な話ではなかった可能性もあるってこと?」


「そうだね」


「うーん……」


「それに、考えるときに天井に視線を送る人もいるしね」僕は付け加えた。「君だってそうじゃないか」


「え?」


 リィルはこちらを見る。


「気づいていないの?」僕は笑った。


「私が?」


「そうだよ。ほら、やっぱり、今の段階では何も断定できない」


「そうだけどさ、でも……」リィルは下を向く。「……でも、あれは、絶対何かやっていた」

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