第22話
僕は一度息を吐き出し、ソファの背に深く凭れかかる。
おそらく、リィルの言っている通りだろう。彼女がその種の観察に長けていることは、僕も知っている。長けているといっても、飛びきり優れているわけではないが、信用に値するのは確かだ。だから、今は僕も彼女が言っていることを事実として受け止めるが……。
……しかし、そうすると、サラはいったい何をしていたのだろう? 勤務時間なのに、彼女は仕事をしていなかったのか? たしかに、この施設では、仕事は量ではなく質で判断されるから、彼女が仕事を早く切り上げた可能性も充分にある。しかし、それなら、どうして、わざわざ休憩室に移動する必要があったのか? 自室でも、充分寛げるはずだ。その種の休憩室は、複数人で会話をするためにあるといって良い。一人で使うものではない。特にこの施設の人間はそうだろう。仕事をするスペースが、そもそも個室なのだから、むしろ休憩室の方がプライベートではないといえる。
そうすると、やはり、サラは一人ではなかった、と考えるのが妥当だ。
休憩室に行く必要があった。
この時間帯なら、ほかの所員に遭遇する可能性は低い。
皆、自分の部屋で一人で仕事をしている。しかも、おそらく、サラは上級の立場にいる人間だ。僕たちのサポーターを務めていることからもそれが分かる。
休憩室でなくてはならない理由……。
やはり、休憩室に、ほかの部屋にはない何かがあるのだ。
サラはそれを使っていた。
誰にも見つからないように……。
十二時になり、テーブルに昼食が届けられる。しかし、僕は今はそれに手をつけなかった。
「ちょっと、行ってみよう」僕は立ち上がる。
「え? 行くって、どこに?」
「その、休憩室に」
「今から?」
「そう」
僕が玄関に向かうと、その後ろをリィルもついてきた。
ドアを開けて廊下に出る。彼女が言っていたように、僕は廊下を右手に進んでいった。
「大丈夫かな……」僕の隣でリィルが言った。「まだ、いるかもしれないよ」
「それならそれでいい。入る前に確認する。まだ話をしていたら、失礼だけど、隠れてその内容を聞こう。もう終わっていたら、なんとか頑張って話しかけてみるよ」
「スリリングだね」
「まあ、たまには悪くない」僕は呟く。「毎日同じことを繰り返してばかりで、そろそろ飽きてきていたところなんだ」
左に進むより廊下は遥かに長い。周囲は明るかった。照明を兼ねた天井がずっと向こうまで続いている。その両側の壁面にドアが一定の間隔で並んでいるから、なんとなく無機質な迷路に迷い込んだ感じがする。たしかに、思い込もうとすれば、こんな情景もスリリングに感じられる。ここに長い間いると忘れてしまいがちだが、今僕たちは海の底にいるのだ。いつ壁に亀裂が入って水が流れ込んでくるか分からない。
靴音が響く。
途中で後ろを振り返ったが、もう先は見えなくなっていた。視界は限られている。
「これ、歩くとどのくらいかかるの?」僕は尋ねる。
「ええっと……。うーん、分からないなあ……。考え事をしながら歩いていたから……」
「ちょっと、手を繋ごうか」
「え、なんで?」
「いや、なんとなく」僕はリィルを見る。「嫌だ?」
「嫌だ」
「ショック」
「嘘だよ」リィルは笑った。「少しだけね」
「なんか、誤解されそうな表現だけど」
「誤解?」リィルは僕の掌を握る。「もう、手に触れている時点で、誤解も何もないと思うけど」
「君の方から触れたよね、今」
「そっちが誘ったんでしょう?」
「その言い方さ、わざとやっているの?」
「どうだと思う?」
「さあ、どうかな」僕は考える。「君なら、どちらともありえそう」
「正解は、わざとでした」
「へえ……」
沈黙。
潜水艦の中を探検しているような錯覚に襲われる。リィルが傍にいるのが救いだった。僕は、こういった雰囲気があまり得意ではない。特に灰色の壁や天井が駄目だ。憂鬱な気分になってしまう。僕は普段から憂鬱な人間だが、それを上回る憂鬱に晒されるとシステムに異常を来してしまうのだ。
突然、廊下の右側の壁がなくなった。
壁が窪んでいる。そこが休憩室のようだ。
僕たちはその空間の前で立ち止まった。
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