第20話

 彼女がこんなことを言うということは、おそらく何かあるのだろう。その何かがどんなものかは分からない。けれど、確かにそれは存在する、といった予感がリィルの中に渦巻いている。それは認めなくてはならない。彼女の直感力がどの程度のものなのか、はっきりとしたことは分からないが、少なくとも、僕以上であることは確かだ。だから、今は彼女に任せるしかない。


「今、外に出てきてもいい?」リィルが言った。


「外って、この部屋の外?」


「そう」


「うん、まあ……」僕は考える。「勤務時間中だから、あまり目立たないようにね」


「了解」


 リィルはソファから立ち上がる。


「あ、あとさ」僕は言った。


「何?」


「できたら、どこかで飲み物を買ってきてくれないかな?」


「施設の中で?」


「うん……。何かしら、そういうものを売っているところがあると思うんだけど……。いや、ないのかな。まあ、なければいいんだ。とりあえず、見つけたら、買ってきて」


「何がいい?」


「何でも」


「グリセリンでもいい?」


「いいね。最高」


 リィルは部屋から出ていった。


 部屋が静かになる(リィルが煩いという意味ではない)。


 タイピングをしながら、僕は作業とは無関係なことを考えた。


 まず、あとで、一度友人に電話をしてみようと思った。友人というのは、僕にこの仕事を紹介した彼だ。その友人はとある企業の社員で、彼が住む街で起こる様々な出来事の仲裁をする仕事をしている。あまりにも抽象的な説明だが、一言で言ってしまえば便利屋だ。そして、彼はとある企業の社員だと言ったが、そこには彼以外の社員はいない。つまり、彼が事実上のトップ、管理者ということになる。普段なら、彼はその街に関する情報にしかアンテナを張っていないが、僕にこの仕事を紹介したということは、今僕たちがいるこの街に関することも多少は知っているということになる。だから、施設を中心に、その周辺情報を探ってみようと考えた。


 途中で一度席を立ってトイレに行く。戻ってきたらまたタイピングを始め、テキストをどんどん翻訳していく。


 リィルは、今、何をしているだろう、と僕はぼんやりと考える。


 別に、彼女を普段から意識しているわけではない。僕は彼女が好きだが、だからといって、いつも頭の中に彼女がいるわけではない。それは確実にいえる。好きなものに夢中になると、常にそれが頭に浮かぶようになることがあるが、今の僕はそういった状態ではない。たしかに、少し前にはそういった時期もあった。それくらい、僕は彼女に夢中だった。けれど、今は違う。いったい何が変わったのだろう?


 一つは、互いの距離が近くなったことが挙げられる。距離が近くなれば、対象は自然と大きく見えるようになる。つまり、僕の頭の中には入らなくなる。言い換えれば、対象を微視的に見るようになる。リィルを微視的に見るようになったことで、以前の彼女とは異なる性質を伴って、僕には彼女が見えるようになった。だから、本当は、常時リィルを意識しなくなったのではなく、全体ではない、彼女の一部にフォーカスするようになったのだ。それは、要するに、リィルの違った一面に注目するようになった、ということでもある。


 それは、親密度が上がった証か?


 たぶんそうだろう。


 けれど、親密度が上がるのは、良いことなのか?


 それは分からない。


 一般的にはその通りだが、リィルが僕とどのような関係を築くことを望んでいるのか、僕には分からない。


 ……もう少し、分かる努力をした方が良いかもしれない。


 少なくとも、彼女が僕を理解しようとしてくれているのは確かなのだから……。


 そう思ったとき、ドアが開いて、リィルが部屋に戻ってきた。


「はい、これ」ドアを閉めて、彼女は僕に缶に入った飲み物を渡した。「この廊下を右手に進んだ先に、休憩所みたいな場所があって、そこに自動販売機が置いてあった」


 僕は飲み物を受け取る。メロンソーダーだった。


「グリセリンじゃないんだ」


「それでね」リィルは僕の前に座る。「私、面白いことを聞いちゃった」


「え、何を? 誰から?」


「休憩所に、サラがいた」リィルは話した。「彼女、誰かと話していたんだけど……、誰だと思う?」


 僕は少し考えてみたが、思い当たる節はなかった。その話題に関する情報がないのだから当たり前だ。


「さあ、誰?」


「それが、誰もいなかったの」


「え? どういう意味?」


「彼女、天井に向かって話していたんだよ」リィルは真剣な口振りで言った。「どういうことだと思う?」


 僕は、缶のプルトップを開けて、緑色の液体を体内に流し込む。


「メロンソーダーは、美味しい、ということだ」

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