第32話

 ベンチから立ち上がって、僕たちはドームの中に戻る。


 階段を下りて廊下を進んだ。


 自分たちの部屋に戻ってくる。


「ちょっと、危ないことをしよう」ドアを開けるなり僕は言った。「君にも協力してほしい」


「何を?」


 僕はソファに腰かけ、自分のデバイスを起動させる。スリープモードにしてあったから、機器はすぐに立ち上がった。


「ヘブンズを解析する」


 僕はディスプレイを見ながら話す。


「……どういうこと?」


「気になることがあるんだ。それを解明するには、それしか方法がない。君にやってもらいたいと思う」


「どうして、私じゃないと駄目なの?」


「すぐに分かる」


 数秒の間があったが、リィルは落ち着いた声で答えた。


「分かった」


 僕は頷く。


 デバイスをクラウドに接続し、先ほどと同じ手順でヘブンズにログインする。ただし、ヘブンズが完全に起動する前に操作を一時的にストップした。そこでデバイスをリィルに手渡す。


「君のウッドクロックを使うんだ」僕は説明した。「ヘブンズに侵入して、記述言語を解析したい。誰にも気づかれないように、プロテクトを張る必要もある。……できそう?」


「できるとは思うけど……。……そんなに危険なことをしないと駄目なの?」


「駄目だ」


 リィルは心配そうな顔をする。


「いや、別に見つかってもいいんだ。見つかったらそれまでだから。策は考えてある。僕たちは報酬を受け取らないで、この施設から立ち去る。もちろん、仕事の成果は彼らに提供する。それでも満足してくれないなら、仕方がないから、こちらから金銭を与えるしかない」


「……それでいいの?」


「いいよ」


 僕を見たまま、リィルは静かに頷いた。


「……分かった」


 リィルの胸の中心部が青く光り、そこから空中に円い立体映像が投影される。今は衣服を着ているから見えないが、その下には硝子の窓が嵌った木製の時計が存在する。これがウッドクロックと呼ばれる機構で、彼女の生命線に当たる。これが機能しなくなれば、彼女はすべての身体制御を失うことになる。


「私のウッドクロックで、ヘブンズのセキュリティゲートを突破できる?」


「たぶん、できると思う」


「プロテクトは、長くても、一日しかもたないよ」


「分かった。なるべく、痕跡を残さないようにしよう。気づかれるまでの時間を稼ぐんだ」


「了解」


 本当なら、こんなことは了解したくないだろう、と僕は思った。逆の立場だったら、僕は絶対に引き受けない。僕にはその程度の度胸しかないのだ。それに比べて、リィルはなかなか勇敢だ。普通に生活していてもそう感じることが多い。


 やはり、僕は彼女に支えてもらわないと駄目らしい。


 なんて脆弱な精神。


 彼女が投影する立体映像が光を増す。リィルがヘブンズへの侵入を図るとともに、デバイスの画面が突然真っ黒になった。やがてそこに白色の文字列が表示される。それは現在の状況を知らせるもので、見てみると、セキュリティーゲートを突破しようとしているところだった。


「大丈夫そう?」


「うん、たぶん」


 ヘブンズのセキュリティーが機能を失う。


 先に進めるようになった。


 しかし、次の瞬間、リィルは目を丸くした。


「え? これって……」彼女はディスプレイを見たまま呟く。「……ベーシック」


「やっぱりね」僕は頷いた。


「そんな……。……どうして?」


「そのまま解析を進めよう。ベーシックで書かれている内容は、僕があとで確認する。君は解析だけしてくれればいい」


 リィルは頷く。


 ベーシックというのは、人間を記述するための言語だ。つまり、ベーシックで記述されているから、人間は人間として存在できる。そして、ベーシックは僕たちウッドクロックを記述する際にも使われている。ウッドクロックは人間をモデルに作られているからだ。


 そして……。


 ヘブンズも、同様にベーシックで記述されていることが分かった。それは、彼が人間と同様の思考回路を持っていることを示す。


 それだけではない。


 きっと、リィルももう気づいているだろう。


 もちろん、僕も気づいている。


 けれど、お互いに、それは口にしなかった。


 なぜか?


 言葉にするのは簡単なはずなのに……。


 そう……。言葉とは、本来そういうものだ。対象を示す単なる記号ではない。それは、対象と同等の力を持っている。文学作品から人の思いを汲み取るのと同じだ。言葉には魔力がある。


 だから、僕も、そしてリィルも、それを口にしようとしなかった。


 現実から目を背けたのだ。


 少なくとも、今だけは……。

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