第24話

 自分の部屋の前に戻ってきて、僕はドアを開けて中に入る。照明が自動的に灯った。空気は相変わらず快適だ。何もかもが適度に調節されている。


 テーブルに載ったままになっている昼食を横目に、僕はソファに座って膝の上でデバイスを起動した。特にすることはなかったが、なんとなく先ほど仕上げたテキストに目を通した。


 文字が並んでいる。


 僕は考える。


 たしかに、リィルが言いたいことは僕にも分かった。


 そこには、何かがある。


 そことはどこか?


 それは、この施設、あるいはこの空間。


 記号化された施設というものが重要なのではない。この場所、この空間に何かがあるのだ。


 まさに直感。


 人間に特有な感覚。


 機械には真似できない能力。


 リィルがそれを発揮できるのはなぜか?


 僕がそれを信じられるのはなぜか?


 そして、その存在を認められる条件とは何か?


 少しだけ分かったような気がした。


 方向性が定まったように感じる。


 僕は友人に電話をかけた。携帯端末から番号を選択し、コール音を聞きながら相手が出るのを待つ。


 電話はすぐに繋がった。彼の陰気な声がスピーカーを通して聞こえる。


 僕は、この数日の間に起こった出来事を彼に伝え、それからこの施設に関する情報を提供するように求めた。すると、案の定彼は僕の要求を拒否した。理由を尋ねると、職業柄必要のないことを教えるわけにはいかないとのことだ。そう言われてしまっては仕方がないが、僕はできる範囲で彼から話を聞き出そうとした。


 彼が教えてくれたのは、この仕事の依頼が届けられたソースに関することだった。その説明によると、彼はある一通のメッセージを受け取ったらしい。当然、そのメッセージはネットを介して届けられ、それに返信する形で彼はその依頼を引き受けた。このようなことは、彼にとっては珍しいことではない。ただし、彼が扱うのは、基本的に彼が住む街の求人情報であり、それ以外の地域は本来彼の守備範囲ではない。けれど、断る理由がないため、彼はこの依頼を引き受けてしまった。


「で、それがどうかしたの?」僕の説明を受けて彼は言った。


「いや、どうかしたのじゃなくて……」僕は話す。「何か様子が変なんだ。リィルもそう言っている」


「訳が分からないね。第一、それで何か事件に巻き込まれたとしても、僕の責任じゃない。僕は君に仕事を紹介し、君はそれを引き受けた。つまり、責任はすべて君にある」


「冷たいやつだ」


「そうさ。知らなかったのか? とにかく、何も起こらないことを祈っているよ」


「何でもいいから、もう少し詳しいことを教えてほしい」


「そう言われても、こっちにも充分な情報はないんだ。……まあ、それなら、独自に調べてみよう。望み薄だと思うけどね」


「よろしく」


「何が?」


 僕が答える前に電話は切れた。


 なんて軽弾みな行動をするのだろう、と端末を仕舞いながら僕は思う。普通、自分の担当外の依頼を引き受けたりするだろうか。しかも、それを友人に紹介するなんて……。


 まあ、今までそれに気づかなかった僕もどうかしているが……。


 ドアが開き、リィルが部屋に戻ってきた。


「おかえり。オンデマンドだね」僕は言った。


「オンデマンド?」リィルは僕の対面に座る。


「その後、何かあった?」


「何も……」彼女は話す。「もう、私、今日は寝よっかな」


「ご自由にどうぞ、と言いたいところだけど、午後の仕事があるからよろしく」


「そう言って、いつも何もやることないじゃん」


 僕はたった今友人から聞いたことを彼女に話した。


「馬鹿じゃないの?」リィルは僕と同じ感想を述べた。しかし、その指摘の対象は彼ではなく僕だった。「確認もしないで引き受けるなんて」


「だって、彼が何も説明しないから……。そんなふうに紹介されたら、普通、正式な依頼だと思うだろう?」


「確認しないのが悪い」


「いちいち確認するわけないじゃないか」僕は言った。「牛乳を飲む前に、それが本当に牛乳か確認したりするわけ?」


「知らないよ。牛乳なんて飲まないから」


「やってしまいましたね、これは」


「他人事だなあ……」リィルは一人がけのソファで横になる。「あああ、もう駄目だあ……。なんかどうでも良くなってきた。好奇心喪失。何だったんだろう……。なんであんなに興味津々で行動していたのかな……」


「魔が差したんだろうね」


「もうさあ、帰ろうよ……。家でごろごろしていた方がよっぽと有益じゃん……」


「うん、床が綺麗になるから」


「あああ……」リィルはソファの肘かけから首を地面に垂らす。「もう、疲れた……」


「何に疲れたの?」僕は笑う。「何もしていないんだから、疲れるはずがない」


「人生に疲れた」


「冷蔵庫に入って、リフレッシュでもしたら?」


「うん、いいかも、それ……」リィルは目を閉じる。


「まさか、そこで寝るつもりじゃないよね」


「そうかも……」


「寝ないでね、本当に」


 リィルは沈黙する。


 静寂。


 僕は立ち上がり、彼女を力尽くで起き上がらせた。


「もう、ちょっかい出さないでよ……」


 リィルは伸びをする。


 僕は自分の席に戻った。


「もう、立ったまま寝ようかな……」


「体操でもしたら?」


 僕がそう言うと、彼女は本当に体操を始めた。

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