第34話
身体と頭を洗い、パジャマに着替えて浴室を出た。リビングに戻ると、リィルはまだ作業を続けていた。
「誰か来た?」僕は尋ねる。
「誰も」
僕はソファに腰をかける。そのままリィルの様子を観察した。様子といっても、彼女はデバイスとにらめっこをしているだけだ。何もしなくても記憶できるのだから、僕としては羨ましい限りだ。
僕が見つめているのに気づいて、リィルはこちらに顔を向けた。
「……何?」
「いや、何も」
「これ、あとで全部翻訳するの?」
「うん、まあ」僕は答える。「じゃないと、何が書かれているのか分からないから。君は分かるの?」
「うーん、あまり……」
「じゃあ、そうするしかないね」
その後もリィルはヘブンズの解析を続け、彼女が予想した通り、およそ三時間後にはすべての作業が完了した。今度はそれをテキストとして保存し、僕が一つ一つ翻訳していくことになる。しかし、僕はベーシックは読めないので、その前にリィルに標準的なプログラミング言語に翻訳してもらった。この作業は数秒ほどで終わった。普通ならそんな簡単にはできない。ウッドクロックはベーシックで記述されているから、彼女の機能を使えば、それを標準的なプログラミング言語にすぐに置換できる。
「でも、どうして、もう一度翻訳し直す必要があるの?」
デバイスのキーを叩いている隣で、リィルが質問した。
「ここに、たぶん、何かあるから」僕は答える。「それ以外にありえない」
「何かって、何?」
「メッセージみたいなもの」
リィルは顔を逸らす。
「……今日中には終わらないよね」
僕は自分の腕時計を見る。もう日付けが変わっていた。
「今日、というのがいつを指しているのか分からないけど、君みたいにすぐにはいかないよ」
「もう、寝ようかな」
「疲れた?」
「うん……」
僕は顔を上げてリィルを見る。彼女の瞼は半分ほど閉じかけていた。無理もない。あれほどの処理を長時間行っていたのだ。
「少しだけ試してみて、上手くいきそうなのが分かったら、僕も寝るよ」
「私、お風呂に入るの忘れてた……」リィルは目を擦る。「どうしよう……。もう、今日はいいかな……」
「溺れられても困るから、今日はもう入らない方がいい。明日起きてから入ればいいさ」
「うん……。じゃあ、そういうことで……」
覚束ない足取りで、彼女は寝室に入っていった。
僕は作業を続ける。
当然、簡単に終わるとは考えていなかった。かなりの量があるし、明日になれば明日の仕事があるわけだから、それらの作業を並行して行わなければならなくなる。僕にそんな体力があるのか疑わしいが、しかし、やらないわけにはいかない。リィルが築いてくれたプロテクトも長くはもたない。ロトがどのような決断を下したのか分からないが、少なくとも、三日すれば事態が動くのは間違いない。できるなら、それまでこちらも粘りたいものだが……。
しかし……。
この施設には、ロト以外にも何人もの所員がいるのだから、その内の誰かに見つかる可能性も充分に考えられる。ロトはサブリーダーという立場に就いているが、それは、彼がこの分野で秀でた才能を発揮したからではないだろう。もちろん、そういう理由もあるだろうが、それ以外の才能がないと彼のポストは獲得できない。
そして、僕はこの施設のリーダーついて考えた。ハイリという名の女性だが、彼女が今どこにいるのかは不明だ。予言書と呼ばれる書物を持ったまま逃走している。
不明瞭なことが多すぎる。
とにかく情報が足りない。ロトに教えてもらったものだけでは……。
気がつくと、僕の手は止まっていた。無意識の内に作業が終了していたようだ。自分で決めた範囲は無事に翻訳できており、これなら問題なく続けられるだろうと僕は思った。
僕も今日は寝ることにする。
寝室に入ると、リィルの微かな寝息が聞こえた。相当疲れていたようだ。
自分のベッドに入る。
布団をかけて天井を見上げた。
今日起きた様々なことが脳を駆け巡る。
「……ねえ、リィル」
返事がないのは承知だったが、僕は寝ている彼女に声をかけた。
しかし、リィルはゆっくりとこちらを振り向く。
「……何?」
「あれ、起きていたの?」
「君の呼びかけを聞いて、起きた」彼女は笑っている。
「それは悪いことをした。ごめん」
「いいよ。で、何?」
「いや、何でもないんだ。何も話すことがないのに、君に話しかけてしまった」
「そういうことって、よくあるものだよ」
「眠いんだろう? 寝ていいよ。応えてくれてありがとう」
「うん……。……でも、何か話したいことがあるんじゃないの?」
「今はない」
「本当に?」
「本当に」
沈黙。
「……分かった。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
暫くすると、再びリィルは寝息を立て始めた。
僕はあまり眠れそうになかった。身体は疲れているのに、脳の多くがまだ活発に動いている。質の高い眠りは期待できそうにない。
寝返りを打つ。
反対側を向いたところで、もう一度リィルと目が合った。
二人で黙って見つめ合う。
「何?」僕は尋ねた。
彼女は答えない。
その瞳が、僅かに青く輝いたような気がした。
僕は嫌な気分に襲われる。
「……大丈夫?」
僕の変化に気づいて、リィルはこちらに手を伸ばす。
「大丈夫だよ。少し頭が痛かっただけだから」僕は誤魔化した。「早く寝た方がいい」
「うん」
「明日も仕事だよ。睡眠時間が短いと、色々と支障が出てくる」
「君が眠ったら、私も眠るよ」
しかし、その三秒後に、リィルは完全に意識を失った。
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