第8章 けれど停滞
第36話
その日の分の作業が終わり、やっとヘブンズの記述言語を翻訳できるようになった。テーブルの上には今日の分の夕飯が届いていたが、僕はまだ手をつけていない。今は食事をしている暇が惜しかった。なんといっても時間がない。焦っているわけではないが、まだやることがあると思うと、ほかのことをする気にはなれなかった。
リィルは風呂に入っている。彼女は今日一日何もしていない。何もしていない、という言い方はおかしいが、実のあることは何もしていない、とでもいえば良いだろうか。ただ、施設の中を彷徨いていたらしい。新しい発見は何もなかったとのことだった。
浴室のドアが開いて、リィルが風呂から出てくる。彼女はドライヤーで髪を乾かさない主義らしい。理由は知らない。濡れた髪をタオルで束ねて、僕の傍までやって来た。
「……ご飯くらい食べたら?」彼女は言った。
「うん、そうなんだけど……」僕は話す。「実は、あまりお腹が空いていないんだ」
「ずっと仕事をしているのに?」
「作業の量が増えるほど、エネルギー消費が抑えられる質なんだよ、僕って」
「嘘っぽい」
「うん、嘘だ」
リィルは対面のソファに座る。
「ご飯、どうするの?」
「食べなかったら、そのまま回収されるんじゃないかな。それで、ロトの分になるとか」
「彼には彼の分があるじゃん」
「どうだろうね。彼も食事をしないタイプかもしれないよ」
「それ、どういう意味?」
「単なる冗談。でも、そんな感じがするだろう?」僕はタイピングを続けながら話す。「何も食べなくても平気そうじゃないか。それ以外にも、睡眠もとらなくても大丈夫そうだね。僕はそれは無理かな……。食事よりは、睡眠の方が欲が強いね」
「どのくらいまでできた?」
「三分の一くらい」
「……間に合うかな」
「間に合うって、何に?」
「私のプロテクトが消失するまで」
「ああ、そういうこと」僕は頷く。「大丈夫だとは思うけど……。それよりも、ヘブンズの活動領域を拡大される方が困る」
「え、どうして?」
「だって、その分プログラムが増えるってことだろう?」僕は説明した。「そうしたら、それまで解析しないといけなくなる。……まあ、もしそうなっても、追加された分が重要かというと、そうでもない気がするけど……」
「ねえ、ちょっと、外に行こうよ」
「今は行けない。見ての通り、手が離せないんだ」
「そのままでいいよ、別に。タイピングしながら、海に行こうよ」
「シュールすぎるんじゃないかな」
「いいじゃん」
「一人で行ってきたら?」
「そんなの、つまんないでしょう?」
「やったことがないから、僕は知らない」
「私に試してみろって言うの?」
「まだ言っていないよ」
リィルはソファから立ち上がり、僕の背後に回り込む。翻訳された内容を確かめるのかと思ったら、彼女は背後から抱きついてきた。
僕は多少動揺する。
「……あのさ」
「何?」
「離れてくれないかな」
「どうして?」
「正当な理由はないけど、しいて言えば、打ちづらいから」
「いいじゃん、そんなの」
「よくない」
「外に行こうよ」リィルは耳もとで囁く。「私、もう我慢できないから」
「一人で行けば、我慢する必要はない」
「あああ、もう!」そう言って、彼女は自分の腕を僕の首に絡めた。「そんな答えが聞きたいんじゃないの!」
「いや、ちょっと……。……うん、本当に、離れてくれないと困る。呼吸ができなくなってきた」
「五分だけでいいから」
「五分じゃ海まで行けないよ」
「じゃあ、十分」
「そうやって、五分ずつ延長していくつもりなんだろう?」
「そうだよ」
「駄目だ」
「なんでよ……」
「なんでも」僕は言った。「とにかく、僕は今キーボードとデートしているんだ。君の出番はない」
「酷い……」
「離れて下さい」
「仕方がない。今日は許してやろう」
首が解放される。
リィルは自分の席に戻った。
「でも……。それって、どう考えてもあと二日じゃ終わらないよね? どうするつもり?」
「終わらせるしかないね」僕は言った。「夜更しするんだ」
「本気?」
「当たり前じゃないか。それしか方法がない」
「そんな……」リィルは肩を落とす。「私、そんなの、無理」
「なんで君が落胆するわけ?」僕は笑った。「君はベッドでぐっすり眠ればいい」
「それはできないからなあ」
「なんで?」
「だって、そうに決まっているじゃん」
「ちょっと、よく分からないんだけど……」
「私も夜更ししよう」
「僕はお勧めしない」
「でもさ、なんか、皆で夜更しするのって、楽しいよね」リィルは突然笑顔になる。「わくわくしない? 本当はしちゃいけないことだけど、それを許してくれる仲間がいるのってさ、どきどきするじゃん。ねえ、そうじゃない?」
「そういう理由で、人は犯罪を犯すんだ」
「そうかもしれないけど……。……でも、仕方がないとは思うよ」
「犯罪を犯すのが?」
「うん……。……だって、いけないことでも、面白そうだったら、ついついやりたくなっちゃうでしょう?」
「どうだろう……」
「私は、たぶん、そう」
「それは、いいのか、悪いのか、分からないね」
「どっちが大切かな? ルールを守って自分の欲望を抑圧するか、それとも、ルールを破って自分の欲望を満たすか」
「一般的には前者だけど、本当は後者の方が大切」
「だよね」
「でも、それは理想だから、現実には適用できない」
「適用する人が、犯罪を犯すってこと?」
「まあ、そうともいえるかな」
「お腹空かない?」
「空いてきたかも」僕は言った。「食べさせてよ。口を開けるから」
「え……」
「あそう。嫌なら構わない」
「そんなにやってほしいの、あーんって」
「冗談だよ」
「やってあげようか?」
「今度ね」
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