第37話

 一時間くらい何も話さずに作業を続けたが、リィルが寝室に向かう様子はなかった。時刻は午後十時を過ぎている。眠るにはまだ早い時間だが、何もしないでソファに座り続けられるのは一種の才能だろう。


 根比べみたいになるのは嫌だったので、僕は作業を続けながら彼女に話しかけた。


「ねえ、リィル」


 僕が呼びかけると、彼女は瞬時に顔をこちらに向けた。それまでずっと天井を見ていたようだ。


「ん? 何?」


「ちょっと考えてみたんだけど、今回の出張は、なかなか素晴らしい旅だったかもしれないね」


 リィルは笑う。


「それ、どういうこと?」


「いや、だってさ、こんなエキサイティングな経験って、そうそうできるものじゃないだろう? 毎日が夢のようだったじゃないか。列車に乗ってここまでやって来て、毎日一生懸命働いて、夜には海に散歩に行って、ときどき謎解きみたいなこともして……」


「そんなきらきらしたものじゃなかったと思うけど」


「え? あ、そう」


「でも、毎日、くたくたになる君を見ているのは、つまらなくはなかったかな」


「へえ……」


「あと、一人で食事をする君を見るのも、なかなか面白かったよ」


「悪趣味だね」


「そんなことない」リィルは意気揚々と話す。「見ているだけで面白いものって、案外少ないものだよ」


「動物園の動物たちは、見ているだけで面白いけどね」


「あ、たしかに」


「僕は動物と同じレベルってことかな」


「そう言われてみれば、見ているだけで面白いものって、けっこう沢山あるかも」彼女の調子は変わらない。「映画だってそうだし、ドラマだって、演劇だって、見ているだけで面白いよね」


「並列関係になっていない。どれも同じカテゴリーだよ」


「ああ、私さ、最近映画を観ていないから、何か、心動かされる傑作を観たいんだよなあ」


「観ようと思えば、いつでも観られる」


「どうやって?」リィルは急に真剣な表情になる。「ここって、映画を借りられるの?」


「念力を使えば」


「は、念力? いやいや、そんなんじゃ観られないって。念力ってサイコキネシスのことでしょう? 無理無理。絶対に無理。そんなので観られるのなら、もう、観音様なんていらないもん」


「君ね、僕にも分かるように説明してくれないと困るよ」僕はタイピングを続ける。


「説明しているよ。君が理解しようとしないだけでしょう?」


「それは違うと思う」


「あのさあ、もう少しレディーに気を遣えないの?」


「それだけの利益がなければ、普通はそういうことはしないものだ」僕は言った。「第一、君がレディーなのか疑問だし」


「何だって?」リィルは立ち上がる。


「まあまあ、落ち着いて……。そんなにかっかしてもいいことはないから」


 リィルは勢い良くソファに腰を下ろした。


「何でさ、そんなに急にハイテンションになるわけ?」僕は尋ねる。「もう少し、自制したら?」


「君が変なこと言うからじゃん……」リィルはテーブルに突っ伏す。


「僕じゃない。君が言ったんだ」


「私、天の川で素敵な出会いを果たしたかったな……」


「何? どうしちゃったわけ?」


「ホーホケキョーの観音寺で、水鳥の観察とかもしたかったし……」


「観音寺ってどこ?」


「知らない。どこかの遺跡じゃない?」


「適当だね。ちゃんと調べてから話さないと……」


 リィルはきっちり五分間黙った。


「ねえ、何か、楽しい話をしようよ」突然顔を上げて、彼女は僕に話しかける。


「今、したじゃないか」


「もっと楽しい話。なんていうのかなあ……。もっと、こう、はらはら、どきどきするような感じ? そんな話がしたいんだけど……、何かない?」


「君の話を聞いているだけで、僕はいつもはらはらするし、どきどきする」


「私がしたいの」


「すればいいじゃないか」僕は話す。「こう、心臓を意識的に動かして、はらはら、どきどきって言えば、それなりにはらはらどきどきするよ」


「私、心臓なんてない」


「じゃあ、今から作れば?」


「ちょっと、外に行かない?」


「行かない」


 リィルは膨れっ面になった。その顔で僕を見つめてくる。マンボウみたいだな、と僕は思う。


「もう少し落ち着いて話そう」僕は言った。「僕ね、今、仕事中なんだ」


「趣味でしょう?」


「違うね。本来なら、やらなくてもいいことをやっているんだから」


「でも、自分で決めてやっているんでしょう? じゃあ、趣味じゃん。少なくとも、仕事じゃないよね」


「その理屈は、僕には通用しない」


「駄目駄目、そんなの」彼女は自分の前で手を振る。「社会に出たら通用しないんだから」


 僕はキーを打っている手を止めて、リィルの顔をじっと見つめた。


「君さ、酔っているんじゃない?」


「ええ? 何だってえ?」


 僕は無視して作業を続ける。


 リィルも何も言わなくなった。

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