第38話
ヘブンズの翻訳結果は、すべて英語で記している。その方が論理的だからだ。だから、僕にはまだ内容がよく分からない。現れる単語の意味くらいは所々理解しているが、それらが合わさってどのような文を作り上げているのか、理解するには時間をかけて注意深く読まなくてはならない。
キーを打つ音だけが部屋に響く。
いつの間にか、リィルは眠ってしまった。
ソファに座ったまま首が不安定に揺れている。
寝室から毛布を持ってきて、僕はそれをリィルの肩にかけた。彼女を寝室まで運んでも良かったが、かなりの重労働になるからやめておいた。彼女が重いという意味ではない。僕の運動能力が足りないだけだ。
もう夜は更けていた。しかし、ここには時計以外に時間を感じさせるものはないから、思い込もうと思えば日中だと錯覚することもできる。
何らかの作業に集中しているとき、人は時間の経過を忘れている。それは、時間という概念を超越していると言い換えられるかもしれない。作業が一段落したところで、ようやく自分が時間に従属していることを思い出す。その瞬間に、あっという間だったなと感じるのだ。
僕は……。
そんなことを考えている内に、段々と意識が遠退いていくのが分かった。
もう、限界だったのかもしれない。
自分の限界を把握できない。
悪い癖だ。
だから、普段から自分の能力を過小評価するようにしているのに……。
駄目だ。こんな所で眠ってしまっては……。
視界にリィルの寝顔が映った。
それを見て、僕は安心する。
まあ、良いか。僕は一人ではないのだから……。
腕が垂れて掌が床に触れる。
それは分かった。
しかし、その感触を最後に僕の意識は消えた。
突然、前方から圧力を受ける。
僕は驚いて目を覚ます。
リィルの頭があった。彼女の髪が僕の頬に触れている。
僕はその頭を撫でる。
リィルは顔を上げた。
「起きて」リィルは言った。「朝だよ」
「うん……」僕は目を擦る。「今、何時?」
「六時三十分」
僕は盛大に欠伸をした。
「大丈夫?」身体から離れて、リィルが質問する。「やっぱり、無理しない方がよかったじゃん」
「君は? あんな姿勢で寝て、身体を痛めたりしなかった?」
「うん……。……ちょっと、首が痛いような気がする」
七時に朝食が届いた。僕はそれを食べる。もう何回ここで食事をとったのだろう、とふと思った。計算する気にはなれなかったが、大分ここでの生活に馴染んだ気がする。久し振りにリィルの手料理を食べたいと思った。そんなふうに食に対して積極的になるのは、僕にしては珍しいことだ。
八時にロトが僕たちの部屋にやって来て、軽く近況を伝えた。どうして僕たちにそんなことを伝えるのだろう、と多少疑問に思ったが、彼も不安を抱えているのかもしれない。サブリーダーという立場上、僕たちが今回の出来事を外部に漏らしたら、最終的に彼が責任をとらなくてはならなくなる。そんな責任は誰もとりたくないだろう。僕にロトとの約束を破るつもりはなかったが、そんな不安を抱えて生きる彼が惨めに思えた。
ヘブンズの記述言語の翻訳作業は中断して、与えられた仕事を今日もこなす。ちょっとした疲労を感じたが、指はまだまだ動きそうだった。しかし、手が使えなくなるとかなり不便になる。食事もとれなくなるし、風呂に入ったり、電話をかけたりと、基本的なことが何もできなくなる。人間は自らの多くを手に依存させているようだ。
あっという間に昼時になった。あっという間と感じるということは、今までそれなりに集中できていたことになる。自分ではそんなつもりはなかったが、リィルに尋ねてみると、僕は何度か彼女の声に応じなかったようだ。
「そうかなあ……」僕は言った。「君に話しかけられたら、絶対に気づくと思うけど……」
「もうね、凄い集中していたよ。なんか、そのまま、悟りを開いちゃうんじゃないかっていうくらい」
「それは凄い」
「適度に休憩した方がいいよ。単純に計算しても、作業が二倍になっているんだから」
「そうだね……」僕スプーンを動かす。今日のランチはグラタンだった。
「大丈夫?」
「平気だよ、たぶん」
「何かあったら、遠慮なく頼ってね」
「その前に、色々なツールに頼ると思う」
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