第45話
リィルは思っていた以上に元気そうだった。けれど、身体の節々が痛むのか、腕や脚を動かす度に顔を顰めていた。それはそうだ。あれだけ激しい動きを繰り返したら……。
僕は前屈みになり、膝の前で両手を組む。
「明日になったら、帰ろう」
自分の髪を弄っていたリィルは、手を動かすのをやめて僕を見る。
「え? 家に?」
「そう」
「そっか……」彼女は天井に目を向ける。だが、すぐにこちらに視線を戻した。「え? じゃあ、もう、今日が最後の夜になるってこと?」
「そうだね」
「え!」リィルは椅子から立ち上がる。「じゃあ、今すぐ、海に行かないと!」
僕は彼女を見上げる。
「本気?」
「当たり前じゃん!」彼女は僕の腕を掴んだ。「何しているの? 早く行こうよ」
「今から?」
「そうだよ。だって、もう行けなくなっちゃうんだよ。もったいないじゃん。せっかく近くにあるのに……」
「行こうと思えば、いつだって行けるよ」
「そういう話をしているんじゃないの」
リィルに引っ張られて、僕は否応なく椅子から立ち上がる。彼女に手を引かれてドームを出た。
冷たい風が身体を包み込む。
頭の上で灯台の光が回転していた。
「ロトに何も言わなくて、大丈夫かな……」僕は呟く。
「いいじゃん、そんなの」彼女は言った。「もう、関係ないんだから」
ドームの裏に周り、木造の階段を下りて海に向かう。下に向かうにつれて波の音が大きく聞こえるようになった。左右では雑草が伸び放題になっている。遠くの方に街の明かりが見えた。
「この近くの街には、一度も足を運ばなかったね」
階段を下りながら僕は言った。
「じゃあ、明日行く?」
「まあ、時間があったら」
砂浜に辿り着く。僕とリィルは暫く無言で歩き続けた。靴を履いているから、踏み締める砂の感触が少し気持ち悪い。けれど、そんなに嫌な感じではなかった。気持ちの良い気持ち悪さという感じだ。
月が見える。
狼男が登場してもおかしくないほどの満月だった。
月の裏側は見えない。
ロトやサラの裏側は見えるだろうか?
僕はそれを見たのか?
あの施設の裏側は、ほんの僅かに垣間見れたような気がする。
でも、まだ足りない。
不充分。
充足を求めているわけではないのに、そんなふうに感じるのはなぜだろう?
僕の前を歩いていたリィルが、突如として足を止めた。
「ねえ」
彼女は声を発する。
「何?」
僕は訊き返す。
「……私、君に酷いことしたよね」
「何が?」
「君を思いきり倒して、首を締めて……」
「ああ、そんなこと」
リィルは勢い良くこちらを振り返る。肩に力が込もっているのが分かった。顔を見ると、目もとが涙で僅かに濡れている。
「そんなことって……」
僕は微笑む。
「何を泣いているの?」
「え?」彼女は自分の目に触れた。
「水分がもったいない。冬だから、しっかり保湿しないと皮膚が駄目になるよ」
リィルは僕の傍まで接近し、そのまま弱い力で僕の胴体を抱き締めた。
「……何?」
彼女は答えない。
正直に言って、僕には彼女の行動の意味が分からなかった。
この行為は何を示しているのか。
どれほど考えても分からない。
でも……。
その意味を考えない限り、彼女と分かり合うことはできない。
「もうね、迫力満点だったよ」僕は言った。「ドラマか漫画かと思ったね、あの光景は。腕利きのスタントマンじゃないとできない名演技だった。それから、画面構成もなかなか素晴らしかったよ。演出もよくできていたし……。最高だった。世界で一番のアクションスターに出会えたような気さえする」
「……馬鹿じゃないの」
「そう。僕は馬鹿なんだ」
「もう、何も言わないで……」
「うん……」
沈黙。
すぐ傍に海藻が打ち上げられていた。
新鮮な塩分を含んでいそうで、美味しそうだな、と僕はなんとなく考える。
次に砂を一粒一粒観察した。
どれも形が不揃いで、同じ材質でできているとは思えない。
栓抜きが転がっていた。
ここで遊んでいた誰かが、持ち帰るのを忘れたのかもしれない。
潮風。生き物が腐った匂いはしなかった。この海には、生き物が存在していないのかもしれない。
いや……。
海藻も一つの立派な生き物だろう。
それでは、砂は?
それでは、リィルは?
リィルは生き物だろうか?
月は?
月は生き物だろうか?
リィルは顔を上げる。
彼女は泣いていたが、笑っていた。
「体調が悪いのかな?」僕は尋ねる。
「うん、まあね」彼女は頷いた。「でも、大分よくなった」
「僕のおかげだね」
「そうだよ」
寒いからもう帰りたいとリィルが言ったので、僕たちは早々に海から立ち去った。こんなに早く帰るのに、どうして彼女は外に出ることを提案したのだろう、と僕は少し不思議に思った。
その問いに対する答えは、分からないわけではない。
でも……。
きっと、分かるような気がするだけだろう。
ドームの前に戻ってくる。初めてここに来たときのことを思い出した。
「もう、帰るんだね」リィルは言った。
「うん」
「なんか、あっという間だった」
「人生も、そんなふうに終えられるといいね」
リィルは否定も肯定もしなかった。
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