第44話

 彼はポケットから携帯端末を取り出し、それを使って電話をかけ始めた。どうやら、本部に状況の報告をしているようだ。


 それにしても、ハイリはどうして死亡したのだろう? 腹部にナイフが刺さっていたみたいだが、他殺なのか、それとも自殺なのか……。


 しかし、どちらでも同じだ、とも僕は思った。もうこの施設のリーダーはこの世にいない。この世というのがどの程度の範囲を示す言葉なのか不明だが、少なくとも、もう、誰も彼女から直接話を聞くことはできない。


 ヘブンズはどうだろう? 人工知性をロトに書き換えられたら、もう以前のそれとは違うものになるのだろうか? それとも、まるで改心したように振る舞いを変えるだけなのか。


 運転手の彼は電話を終えて、端末をポケットに仕舞った。それから僕の方に向き直り、片方の手を向けて質問する。


「明日には帰りますか?」


 彼の質問を受けて、僕は少しだけ考える。


「それまでに、リィルが目を覚ましたら……」僕は答えた。「あとは、ロトに了承をとらなくてはならないので……」


「彼なら、もう、そのつもりでしょう」男性は言った。「それに、これ以上損失を出さないためにも、貴方の要求は何でも呑むでしょうね」


 僕は小さく頷く。


「さて、それでは……」彼は背筋を伸ばして軽く礼をした。「私はもう戻ります。これ以上の脅威があるとも思えないし……。明日の朝、十時頃に迎えに来ます。列車はいくらでもあるから、時間の調整も受けつけますけど……。どうします?」


「十時でいいです」


「了解」彼は頷いた。「では、さようなら」


「どうもありがとう」


 優雅な足取りで彼は建物の出口に向かっていく。扉の隙間から、外に自動車が停まっているのが見えた。運転は得意ではないと言っていたが、今回もあの車に乗ってきたようだ。なかなかの腕前なのかもしれない、と僕は勝手に想像する。


 静寂が訪れた。


 僅かに哀愁感が漂っている気がする。


 上を向くと、歪曲している天井が見えた。


 まるで教会にいるみたいだ。


 この建物はドームの形をしているから、どちらかというとモスクの方が近いかもしれない。


 リィルの対面の椅子に移動し、僕は今後やるべきことを考える。


 そうは言っても、もう明確にやらなくてはならないことはなかった。仕事は頓挫したといって良いし、あとは報酬を受け取って家に帰るだけだ。当然、報酬が現金の状態で渡されるはずはない。自分の口座に振り込まれるはずだ。あとは……。友人にも連絡を入れなくてはならなかった。突然電話を切ってしまったし、きっと驚いているだろう。もしかしたら、心配して、今も電話をかけ続けているかもしれない。けれど、僕は今すぐに彼と話す気にはなれなかった。まだ話して良いこととそうでないことの整理ができていないし、何が起きたのか伝えようとしても、きっと要領良く話すことはできないだろう。きちんと考えをまとめてからの方が良い。


 考えてみれば、それほど長い間ここにいたわけではなかった。ほんの数週間、一ヶ月に満たない期間でしかない。一ヶ月というのがどれくらいの時間なのか、僕にはぼんやりとしたことしか分からない。自分が明日死ぬとしたら、これ以上ないくらい長く感じられるだろうし、自分がこれからも生き続けるとしたら、まあ、この程度か、と思えるくらいでしかないだろう。


 僕は明日死ぬだろうか?


 分からない。


 分からないからこそ、明日に向けて準備をしなくてはならない。


 生きる可能性がある以上は、ずっと……。


 微かな声とともに、リィルの頭が少し動いた。僕は彼女の方に視線を向ける。


 首を真っ直ぐ伸ばして、リィルはゆっくりと目を開けた。


「大丈夫?」僕は声をかける。


「ん……」違和感を覚えたのか、彼女は自分の額に触れた。「……あれ、何、これ……」


「僕のこと、覚えている?」


 リィルは僕をじっと見つめる。二、三度と瞬きをしたあとで、彼女は十五度くらい首を傾けた。


「誰?」


「え、嘘」


「ああ、君か」彼女は首の角度を戻した。「これ……、何か、怪我したの?」


「うん、そう」僕は頷く。「少し切ったんだ。……いや、少し、ではないかな……。そんなに大きい傷じゃないけど、出血したのは確か。……傷が残るかは、分からない」


「あ、そう……」


「ごめん。いや、なんていうのか……。……僕には何もできなかったんだ。君がサラと取っ組み合って、そして、そのあと……」


「いいよ、謝らなくて。というか、君は何も悪くないし」リィルは笑う。「傷が残っても、前髪で隠れるから大丈夫だよ」


「そういうものなの?」


「え? 何が?」


「残っていると思うだけで、嫌にならない?」


「ならない」


「君さ、あのときのこと、全部、覚えている?」


「うーん、どうかなあ……」


「あ、それと、頭、痛くない?」


「あまり」


「大丈夫そうで、よかったよ」


「大丈夫じゃないよ。怪我したんだから」リィルは話す。「気を失う前のことは、全部覚えているよ。突然だったから、必死に覚えようとしたんだろうね、きっと」


 僕は頷いた。

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