第40話

 サラはゆっくりと僕たちの背後を歩く。


 足音。


 ほかには何も聞こえない。


 僕の鼓動は?


 僕の呼吸は?


 心肺機能は正常に作動しているか?


 分からない……。


 心臓の音も、呼吸の音も、今は完全に聞こえなかった。


 なぜ?


 リィルは?


 僕はそっと自分の隣を見る。


 彼女の表情は落ち着いていた。


 静かに目を閉じている。


 伏せられた瞼を観て、長い睫毛だな、と僕は思った。


 ああ、なんてくだらないことを考えるんだろう……。


 まるで下等な動物。


 こんな状況下でも、生物的な美に惹きつけられる愚鈍。


 サラは歩くのをやめる。リィルの隣に立ち、彼女の頭にピストルの先端を突きつけた。接触を認識してリィルは目を開ける。彼女は終始無表情だった。まるで恐怖すら感じられなくなったように……。


「二人とも、知ってはいけないことを知ってしまった」サラは言った。「このまま帰すわけにはいかない」


 僕は目だけで彼女の姿を確認する。


「命乞いをさせてもらえませんか?」


 サラは引き金に指を当て、僕をじっと見つめた。


「できると思うの?」


「まあ、無理でしょうね」


「あなたたちを抹消し、私たちは事件そのものを隠蔽する」


「どうして、これから殺す人間にそんなことを言うんですか?」


「せめてのサービスのつもり」サラは表情を変えない。「ありがたいと思いなさい」


「それは、感謝しないといけませんね」


 サラはピストルをリィルの頭から離し、今度はそれを僕に向けた。


「何ですか?」僕は尋ねる。


「黙れ」


 彼女は僕の傍に近づこうとする。


 次の瞬間、銃口が自分から離れたのを確認したリィルが、サラの首に思いきり腕を伸ばした。


 サラは反応する。しかし、ワンテンポ遅れた。


 二人は縺れ合う。


 僕はリィルに加勢しようとしたが、サラがピストルを持っているため上手く動けない。


 サラは引き金を引く。


 一発。


 弾はリィルのすぐ傍を通り、対面にあったソファを撃ち抜いた。


 轟音で耳が聞こえなくなる。


 無音。


 リィルは一方の手でサラの首を締め、もう片方の手でピストルを握っている方の腕を掴もうとする。


 サラの抵抗。


 リィルは、彼女の腕を床に押しつけようとした。


 しかし、相手が動くので上手くいかない。


 銃口が何度も僕の方を向いた。怖かった。


 二人はバランスを崩す。


 靴が床を擦る音。


 摩擦。


 リィルは足を踏み外したが、スタビライザーが作動して、すぐに体勢を立て直した。


 ステップを踏むように。 


 踊り子の真似をするように。


 二人は素早く足の位置を入れ替える。


 そして、リィルは、サラのピストルを取り上げた。


 そのまま彼女を床に組み伏せる。


 サラはまだ抵抗する。


 まるで、何かの支配から逃れるように……。


 リィルは首を締める力を強めた。


 歯を食いしばる。


 どれだけ力を込めても、これ以上サラに勝利の女神は微笑まない。


 これで終わり。


 確定事項。


 やがて、サラは動かなくなった。


「誰か呼んできて!」リィルが大きな声で叫んだ。「早く!」


 僕は部屋から出ていこうとしたが、その前にサラが気を失っているのに気づいた。


「離して」僕はリィルに言った。「サラが死んでしまう」


 リィルはサラの様子を確認し、すぐに首に回していた腕を解いた。


 サラは両腕を投げ出す。


 床にへばり付くように力は分散される。


 訪れる静寂。


 聞こえるのは、リィルの荒い呼吸だけ。


 彼女は僕を見る。


 僕は頷いた。


「大丈夫だ」僕は言った。「よくやった。ナイスファイトだ、リィル」


「私……」彼女の声は震えている。


「何も問題はない。サラは生きている。気を失っただけだ」


「……駄目、だ。私、もう、何も、できない」


「……リィル?」


「ごめん……」リィルの表情は引き攣っている。「ごめん……、ね……」


 僕はリィルの肩に触れようとする。


 しかし……。


 伸ばした手は届かなかった。


 彼女に阻害されたからだ。


 僕は、リィルに思いきり首を絞められ、その勢いのまま後ろに倒れる。


 ……リィル?


 意識が薄れる直前に、僕は彼女の顔を見た。


 笑っている。


 笑っていた。


 リィルは、楽しそうに笑っていた。


 数秒後、彼女の瞳は赤く輝き、僕の目には涙が浮かんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る