第15話

「起きて」彼女の口が動く。「時間だよ」


 僕はゆっくりと身体を起こし、枕もとにあるデジタル時計を確認する。もう午後一時五十分だった。あと十分で午後の作業が始まる。


「大丈夫?」リィルが尋ねた。


「うん、まあ……」僕は額を抑える。「妙な夢を見た」


「どんな?」


「いや、気にしなくていい。夢は夢にすぎない」


「もう、始まるよ」


「分かっている」


 リビングに移動し、スリープモードにしておいたデバイスを起動する。クラウドに接続し、午前の続きを始めた。


 作業は、その名の通り、本当の意味で作業だった。だからほとんど頭を使わない。少なくとも、これらの一連の運動を通して学習することは何もない。たとえるなら、ネットサーフィンをしているようなものだ。視覚情報は確かに脳に伝わっているが、脳の側がそれを正しく処理しようとしない。どうでも良い情報は記憶に留めないようにできているからだ。つまり、省エネルギーを徹底した結果だといえる。


「ねえ、あのさ」午後の作業を開始して三十分が経過した頃、僕はリィルに声をかけた。


「ん? 何?」携帯端末から顔を上げて、リィルは反応する。


「これって何て読むのかな?」


 僕がデバイスのディスプレイを指差すと、リィルは立ち上がって僕の方にやって来た。隣から顔を出して、彼女はディスプレイを覗き込む。


 僕が指示したところには、”humiliate”と記されていた。僕にはこの単語の意味が分からない。


「えっと、humiliateじゃなかったかな」彼女は流暢な発音で答える。


「聞いたことない。どういう意味?」


「たしか、尊厳を踏み躙る、みたいな意味だったと思うけど」


「尊厳? 尊厳を踏み躙る? へえ……。いやあ、難しい動詞だね」


「でも、合っている保証はないよ。調べたら?」


「まあ、そうか」


 僕はオンラインの辞書を使って単語の意味を調べる。すると、彼女が言ったのとほぼ同じ意味であることが分かった。


「ああ、合っているね」僕は言った。「さすが。凄いじゃないか」


「最初から調べればいいじゃん」


「そうだね」


「どうして私に訊いたの?」


 僕はリィルの顔を見る。


「さあ、どうしてだろう」


「試したかったとか?」


「いや……。ただ、なんとなく、訊いてみようかな、と思ったから、かな」


「ふうん」


 リィルは腑に落ちないみたいだったが、そのまま自分の席に戻った。


 タイピングを続けながら、僕は、どうして彼女に今の質問をしたのだろう、と自問自答した。たしかに不合理だ。僕の手もとにはデバイスがあって、ちょっとキーを操作すれば、簡単にネットで検索することができる。デバイスの表示を切り替えるのが面倒なら、携帯端末で同じ操作をすることも可能だ。それなのに、わざわざ声帯を震わせ、舌の位置を変えて、声を出して彼女に読み方と意味を尋ねた。


 どうして、そんなことをする必要があったのか?


 分からなかった。


 エラーかもしれない。


 ただ……。


 彼女の返答を聞いて、少し安心したのは確かだ。


 もしかすると、安心を求めて彼女に尋ねたのかもしれない。


 けれど、それはなぜ?


 リィルは、いつも僕の傍にいるのに、どうして、彼女の返答を聞きたかったのか?


 僕は、どうして、彼女とのコミュニケーションを求めたのだろう?


 やはり、分からなかった。


 暫くの間、僕の頭にはその疑問が渦巻いていたが、仕事の邪魔になると判断して、一時的に保留することに決めた。


 その疑問については、あとで彼女に意見を訊いてみようと思った。


「ねえ、君さ」リィルが言った。「ワイバーンって知っている?」


「ワイバーン?」


「そう、ワイバーン。龍の一種なんだけど……」


「知らないね。それがどうかしたの?」


「いや、なんとなく」リィルは笑った。「君に訊いてみようかなって思った」


 僕は彼女を見る。


 僕の不思議な言動について、彼女に意見を求める必要はなくなったな、と僕は思った。

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