第50話

 リィルが身体を動かし、ゆっくりと頭を持ち上げる。彼女が目を開ける前に、僕はその紙を上着のポケットに隠した。中に携帯端末が入っていたから、今までそれを操作していたふりをする。


「……私は、誰?」目を開けて、リィルが呟いた。


「おはよう」僕は平常を装って話す。「よく眠れたみたいだね。よかったよ」


「あと、どのくらいで着きそう?」


 僕は時計を見る。


「だいたい、二時間くらいかな」


「そっかあ……。……あああ、もう、一生眠っていてもいいかもなあ……。というよりも、眠りに入る瞬間の、あの意識を失う感じを、一生味わっていたいというか……」


「なかなか、冴えたことを言うね」


「冴えた?」


「いや、違うか。なんていうのか、うーん、ちょっと分からないけど……」


 彼女は無表情になって僕を見つめる。


「……何かあった?」


 彼女の洞察力に驚いたが、僕も表情を変えないで首を振った。


「いや、何も」


 リィルは何度か瞬きをする。それから、僕が帽子を持っているのに気づいた。


「それ、返してよ」彼女は手を伸ばす。「どうして、君が持っているの?」


「ああ、これね」僕はそれを彼女に渡した。「落ちたから、拾ったんだよ」


「どうもありがとう」


「どういたしまして」


 暫く様子を観察してみたが、リィルは紙の存在を知らないみたいだった。


 時間が経過して、列車は無事に終点に到着した。ここで乗り換えをして、僕たちの住む地域に帰ることになる。


 ホームは人でいっぱいだった。


 都市の喧騒が僕たちを出迎える。


 背後で扉が閉まる音。


 列車が走行し始める加速音。


「なんか、帰ってきたって感じがするね」リィルが呟く。


 階段を上って改札口へ。


 駅の構外に出たタイミングで、大粒の雨が降り始めた。





 電車を乗り換えるために移動する。様々な路線のターミナルとなっている構内を出て、地域別に割り振られた駅舎に入った。電子マネーを使って改札を通り抜け、階段を降りてホームに出る。ホームは混雑していた。平日のこの時間だと、学生や労働者の帰宅に巻き込まれることになる。しかし、ほかに最短ルートで帰れる方法はないので、このまま彼らと一緒に電車に乗るしかない。


 僕は、リィルには何も伝えないまま、前から数えて四つ目の乗車口に向かった。すでに何人も並んでおり、四つの列が出来上がっている。


 何が起きるのか分からなかった。だからこそ、リィルと行動をともにした方が良いと判断した。何かあったら彼女に助けてもらえるからだ。情けないが、そうするしかない。目立ったことが何も起こらなければそれで良かった。すでに疲れている彼女に、これ以上ストレスをかけることはしたくない。


 腕を伸ばして、リィルが僕の手をそっと握る。


 僕は彼女を見た。


「……嫌だった?」リィルは笑顔で僕に尋ねる。


 僕は黙って首を振る。


「どこにも、行かないでね」


「どういう意味?」


「別に、深い意味はないよ。はぐれないように、ということ」


 ホームの向こう側では雨が降っている。どんよりとした曇り空だった。夜だから空はもう明るくないが、それでも、そこに分厚い雲が浮かんでいるのが分かる。空気は微妙に湿っている。折り畳み傘を手に下げている人が多かった。


 リィルに気づかれないように、僕は周囲を見渡す。けれど、人が多すぎて視界は限られている。誰も近づいてくる気配はなかったが、とっさに近づかれても反応できる自信はなかった。


 五分が経過する。


 僕たちがいるのと反対側のホームに電車が入ってきて、乗る人と降りる人の交換作業が行われる。まるでプログラムされているみたいに、人の動きは揃っていて正確だった。予め計算されているように身を翻し、未来を予測できるように自分にとって最適な位置を探し当てる。


 間もなく、僕たちがいる方のホームにも電車が入ってくる。


 警笛の音が短く轟いた。


 レールと車輪が擦れる独特の音が響く。


 ホームが僅かに振動した。


 電車は徐々に減速し、車体の扉とホームドアの位置が調整される。


 やがて、電車は完全に停止した。


 二つの扉が同時に開き、中から沢山の人が降りてくる。


 降りる人の移動がすべて終わり、今度は僕たちが乗り込む番になる。


 列の前方から車内に入っていった。


 最後尾に近い位置にいる僕たちは、少し遅れて乗車する。


 しかし、何も起こらなかった


 ここではない?


 このタイミングではないのか?


 リィルと手を繋いだまま、僕は車内の奥に向かって進んでいく。


 一歩。


 二歩。


 そのとき、右斜め前方に座っていた女性が突然立ち上がり、僕たちのすぐ傍を通り抜けていった。


 けれど……。


 彼女は、僕に接触した。


 そして、僕はそれを感じた。


 確かな感覚があった。


 手を繋いでいない方の手を、上着のポケットの中に入れる。


 感触。


 僕の歩調はワンテンポ遅れて、リィルがほんの僅かにリードする。


 僕の手は、厚い紙の表面に触れていた。


 認識すると同時に、後ろを振り返る。


 左右から扉が出現し、ホームと車内を完全に分断した。


 長方形の窓の外。


 僕は車内の向こう側を見る。


 女性がこちらを見ていた。


 顔は帽子で隠れていてよく見えない。


 体格も分厚いコートを着ているせいで分からない。


 でも……。


 青く光るその瞳は、確かに僕の姿を捉え、そして、加速する電車、その運動に引っ張られるように、空気中に鮮やかな輝線を残して消えていった。

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The Signature of Our Dictator 羽上帆樽 @hotaruhanoue0908

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