第50話
リィルが身体を動かし、ゆっくりと頭を持ち上げる。彼女が目を開ける前に、僕はその紙を上着のポケットに隠した。中に携帯端末が入っていたから、今までそれを操作していたふりをする。
「……私は、誰?」目を開けて、リィルが呟いた。
「おはよう」僕は平常を装って話す。「よく眠れたみたいだね。よかったよ」
「あと、どのくらいで着きそう?」
僕は時計を見る。
「だいたい、二時間くらいかな」
「そっかあ……。……あああ、もう、一生眠っていてもいいかもなあ……。というよりも、眠りに入る瞬間の、あの意識を失う感じを、一生味わっていたいというか……」
「なかなか、冴えたことを言うね」
「冴えた?」
「いや、違うか。なんていうのか、うーん、ちょっと分からないけど……」
彼女は無表情になって僕を見つめる。
「……何かあった?」
彼女の洞察力に驚いたが、僕も表情を変えないで首を振った。
「いや、何も」
リィルは何度か瞬きをする。それから、僕が帽子を持っているのに気づいた。
「それ、返してよ」彼女は手を伸ばす。「どうして、君が持っているの?」
「ああ、これね」僕はそれを彼女に渡した。「落ちたから、拾ったんだよ」
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
暫く様子を観察してみたが、リィルは紙の存在を知らないみたいだった。
時間が経過して、列車は無事に終点に到着した。ここで乗り換えをして、僕たちの住む地域に帰ることになる。
ホームは人でいっぱいだった。
都市の喧騒が僕たちを出迎える。
背後で扉が閉まる音。
列車が走行し始める加速音。
「なんか、帰ってきたって感じがするね」リィルが呟く。
階段を上って改札口へ。
駅の構外に出たタイミングで、大粒の雨が降り始めた。
*
電車を乗り換えるために移動する。様々な路線のターミナルとなっている構内を出て、地域別に割り振られた駅舎に入った。電子マネーを使って改札を通り抜け、階段を降りてホームに出る。ホームは混雑していた。平日のこの時間だと、学生や労働者の帰宅に巻き込まれることになる。しかし、ほかに最短ルートで帰れる方法はないので、このまま彼らと一緒に電車に乗るしかない。
僕は、リィルには何も伝えないまま、前から数えて四つ目の乗車口に向かった。すでに何人も並んでおり、四つの列が出来上がっている。
何が起きるのか分からなかった。だからこそ、リィルと行動をともにした方が良いと判断した。何かあったら彼女に助けてもらえるからだ。情けないが、そうするしかない。目立ったことが何も起こらなければそれで良かった。すでに疲れている彼女に、これ以上ストレスをかけることはしたくない。
腕を伸ばして、リィルが僕の手をそっと握る。
僕は彼女を見た。
「……嫌だった?」リィルは笑顔で僕に尋ねる。
僕は黙って首を振る。
「どこにも、行かないでね」
「どういう意味?」
「別に、深い意味はないよ。はぐれないように、ということ」
ホームの向こう側では雨が降っている。どんよりとした曇り空だった。夜だから空はもう明るくないが、それでも、そこに分厚い雲が浮かんでいるのが分かる。空気は微妙に湿っている。折り畳み傘を手に下げている人が多かった。
リィルに気づかれないように、僕は周囲を見渡す。けれど、人が多すぎて視界は限られている。誰も近づいてくる気配はなかったが、とっさに近づかれても反応できる自信はなかった。
五分が経過する。
僕たちがいるのと反対側のホームに電車が入ってきて、乗る人と降りる人の交換作業が行われる。まるでプログラムされているみたいに、人の動きは揃っていて正確だった。予め計算されているように身を翻し、未来を予測できるように自分にとって最適な位置を探し当てる。
間もなく、僕たちがいる方のホームにも電車が入ってくる。
警笛の音が短く轟いた。
レールと車輪が擦れる独特の音が響く。
ホームが僅かに振動した。
電車は徐々に減速し、車体の扉とホームドアの位置が調整される。
やがて、電車は完全に停止した。
二つの扉が同時に開き、中から沢山の人が降りてくる。
降りる人の移動がすべて終わり、今度は僕たちが乗り込む番になる。
列の前方から車内に入っていった。
最後尾に近い位置にいる僕たちは、少し遅れて乗車する。
しかし、何も起こらなかった
ここではない?
このタイミングではないのか?
リィルと手を繋いだまま、僕は車内の奥に向かって進んでいく。
一歩。
二歩。
そのとき、右斜め前方に座っていた女性が突然立ち上がり、僕たちのすぐ傍を通り抜けていった。
けれど……。
彼女は、僕に接触した。
そして、僕はそれを感じた。
確かな感覚があった。
手を繋いでいない方の手を、上着のポケットの中に入れる。
感触。
僕の歩調はワンテンポ遅れて、リィルがほんの僅かにリードする。
僕の手は、厚い紙の表面に触れていた。
認識すると同時に、後ろを振り返る。
左右から扉が出現し、ホームと車内を完全に分断した。
長方形の窓の外。
僕は車内の向こう側を見る。
女性がこちらを見ていた。
顔は帽子で隠れていてよく見えない。
体格も分厚いコートを着ているせいで分からない。
でも……。
青く光るその瞳は、確かに僕の姿を捉え、そして、加速する電車、その運動に引っ張られるように、空気中に鮮やかな輝線を残して消えていった。
The Signature of Our Dictator 羽上帆樽 @hotaruhanoue0908
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