第7話

「ああ、疲れた……」リィルが勢い良く背凭れに寄りかかった。


「そんなに?」僕は応答する。「移動しただけじゃないか」


「移動が一番疲れる」


「まあ、たしかにね」


「さっきの人さ、妙な感じだったよね」リィルは言った。「なんか、歳の割に落ち着いている感じで……」


「君だってそうじゃないか」


「え?」


「四十歳なんだろう?」


 リィルは僕を睨みつける。


「嘘に決まっているじゃん」


「あれ、そうなの?」


「馬鹿にしているのかな?」


「いや、本気だけど……。へえ、そう……。てっきり本当なのかと思った」


「そんなふうに見える?」


「頑張って見ようと思えば、あるいは」


「頑張らないでよ」彼女は困ったような顔になる。「なんかずれているよね、君って……」


 よく言われることなので、僕は黙って頷いた。


 左の方から音がして、僕はそちらに顔を向ける。見ると、ドームのドアが開き、男性が一人こちらに近づいてきた。


 僕とリィルは立ち上がる。


「ようこそ」僕たちの前に立って、彼が挨拶をした。「お疲れでしょう。すぐにお部屋にご案内致します」


 男性が片手を差し出してきたので、僕は彼の手を握った。リィルもそれに続く。


「えっと、貴方は……」


「ああ、申し遅れました。私は、この施設のサブリーダーを務めている者です。名前をロトといいます。どうぞ、よろしくお願い致します」


 そう言って、男性は再び頭を下げる。非常に礼儀が正しい印象を受けた。


「お部屋にご案内する前に、まずは、ええ、そうですね……。少しこちらでお話をしましょうか」そう言って、ロトは僕たちに座るように勧める。彼は立ったままだった。「詳しい内容は明日お話ししますので、今日のところは概要だけお伝えしておきます」


 僕は黙って頷く。


「まずですが、食事はすべてお部屋にお届けします。全員での会食、という文化はここにはありません。入浴設備もお部屋に備わっておりますので、そちらをご自由にお使い下さい。衣服に関しましても、まことに心苦しいのですが、ええ、その、ご自分で洗って頂くことになります。とはいっても、部屋に備わっている洗濯機に衣服を入れて、スイッチを押すだけですので、どうぞ、そちらをお使い下さい。ベッドのシーツも定期的に洗濯して頂くようにお願いします」


 僕は再び頷く。なんだか本当にホテルに宿泊しに来たみたいだな、と思った。周囲の環境がそうした錯覚を一層引き立たせる。


「ええ、それでは、お仕事の方ですが……。……お二人には、主にプログラミング言語を扱った翻訳作業を行って頂きます。そちらがご専門と伺っておりますので、それほど苦労しないとは思いますが、一応、担当者を一人添えさせて頂きます。今回は彼女がサポーターとしてお二人を支えますので、詳しいことは、明日彼女に直接お尋ね下さい」


 そう言って、ロトは自分の説明を終了した。いたって当たり前の内容で、僕は若干拍子抜けしてしまったが、彼の丁寧な人柄はよく分かった。


「実は、現在我々のリーダーが不在でして、その……、そういうわけで、サブリーダーである私がお二人の案内役を務めさせて頂くことになりました。直接ご不便をおかけすることはないと思いますが、ご留意頂けたら幸いです」


「えっと、その方が、僕たちを使命してくれたんですか?」気になったので、僕は質問した。


「いいえ、そういうわけではありません」ロトは自分の前で手を振る。「その決定は、組織の該当する部署で話し合って決めたことです」


 僕は頷いた。


 ロトに促されて、僕とリィルは椅子から立ち上がる。彼に続いてフロントを横切り、建物の奥へと進んでいく。


 歩いていると、隣でリィルが目配せをしてきた。


 意味が分からないので、僕はとりあえず首を傾げる。


 彼女は舌を覗かせた。


「え?」僕は小声で尋ねる。「何?」


「なんか、変な感じがしない?」リィルは言った。


「どういう意味?」


「いや、何も感じないのなら、いいんだけど……」


 フロントの先は廊下になっていたが、それほど長くなかった。すぐに突き当りにドアが出現する。廊下は明るかったが、そのドアの付近は、僕たちが近づくことで初めて明かりが灯った。


 ロトがドアを開ける。


 ドアの先は階段だった。


 なるほど、と僕は一人で頷く。


 どうやら、作業を行う空間は地下にあるようだ。


「我々の主な仕事場は、海のずっと下に存在しています」歩きながら、ロトが説明した。「先ほどのロビーは、本当にロビーとしてしか機能しておりません。作業はすべて地下空間で行います」


「それには、何か理由があるんですか?」僕は尋ねる。


「詳しくは存じ上げておりませんが、なんでも、創始者がそのような環境を好んだとか……」ロトは少し笑った。「どうやら、集中できる環境を望んでいたようです」


 彼が創始者と呼んだということは、この施設のリーダーとその人物は別人なのだろう、と僕は思った。


 階段はコンクリート製で、かなり重厚な作りだった。左右の壁も同じだ。この先は、照明器具がどこにあるのか分からなかった。どこを見てもそれらしきものは見つからない。どうやら、天井そのものが照明として機能しているようだ。


 階段を下りた先は、ロビーとは雰囲気がかなり違っていた。


 一本の細長い廊下がずっと向こうまで続いており、その左右に等間隔でドアが並んでいる。ドアの向こう側には部屋があるわけだから、それだけの空間がこの辺りに存在していることになる。廊下の床や壁は灰色だが、コンクリートが剥き出しというわけではない。わざとその色に塗装されているのが分かる。


 僕たちはロトの後ろについて歩く。


 三人分の足音が響いた。


 ほかには何も聞こえない。


 ここが海の底だとは思えなかった。


 やがて、ロトは一つのドアの前で立ち止まった。


「こちらが、お二人のお部屋になります」彼は説明した。「必要なものはすべて揃っていると思いますが、何かご不便がありましたら、内線でお伝え下さい。担当の者が伺います」


 僕は頷き、ロトからカードキーを受け取る。


「何か質問はございますか?」


 ロトに尋ねられたが、僕には特に訊きたいことはなかった。隣を見てリィルにも確認したが、彼女も首を横に振った。


「では、夕食の時間までお寛ぎ下さい。夕食は午後八時にお届けする予定ですが、時間の変更はご希望ですか?」


「いえ、そのままで大丈夫です」僕は答えた。


「では……」


 そう言って、ロトは踵を返し、階段がある方へと戻っていった。

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