第48話

「……傷、平気?」


 思考を終えた僕は、黙ったままのリィルに尋ねた。


 彼女は少し笑う。


「うん……。……実は、あまり気にしていない」


「どうして?」


「だって……。……これから、誰かを好きになるわけでもないし」


 僕は顔を逸らす。


「そう……」


 リィルの言葉を聞いて、彼女は強いと僕は思った。それに比べて僕はどうか。未だに彼女に対して見栄を張っている気がする。本当はそんなことをする必要はないのに、なぜか、意味の分からないプライドを掲げて行動してしまう。


 でも……。


 それと同時に、リィルは弱いとも思った。


 ヘブンズからしてみれば、彼女は人間と同等の存在ではないのだ。そう判断されたことが、僕は悲しかったし、寂しかった。


 僕と彼女の間には、間違いなく差異が存在する。


 普段は意識していないだけで、目には見えない、けれど確実に存在する、何らかの差異が……。


 列車はトンネルに入る。窓は上下で二分割された構造になっており、今は上半分が開いていた。トンネルに特有なざらついた匂いがする。すぐに再び明るくなり、草木が茂る自然の風景が見えるようになった。


「家に帰ったら、何をする?」


 リィルはこちらを見る。彼女は自分の膝の上に両肘をつき、その上に自分の顎を載せている。


「まずは、掃除かな」僕は答えた。


「ええ、面倒だなあ……」


「うん、面倒でも、やろう」


「自動で掃除してくれる機械とかないかな?」


「売っていると思うよ」


「じゃあ、買おうよ」リィルは提案する。「その方が便利じゃん」


「でも、僕は、なんとなく自分で掃除をしたい」


「どうしてよ……。掃除なんて、やりたくないでしょう?」


「やりたくないけど、やってもいいかな、と思うことがたまにある。食器を洗うのだって、楽しいときは楽しいだろう?」


「全然」


「歯を磨くのは?」


「面倒」


「君ってさ、女性らしさが足りないよね」


「だってさあ……。もうそんな必要ないじゃん。誰に見せびらかすの?」


「僕に」


「どうせ、気を遣ったって、無視するだけでしょう?」


「うん、そうかもね」


「やる意味がない」


「毎日続けたら、それなりの評価はするよ」


「評価とか、そういう問題じゃないの」リィルは膨れる。身体がではない。頬がだ。「一言ね、綺麗とか、可愛いって言ってくれれば、それでいいんだから」


「じゃあ、十日分纏めて言おうか?」


「ああ、もう、馬鹿じゃないの?」


「だから、そうだって」


「はあ……」リィルは隣の座席に倒れる。そこには彼女のバッグが置かれているだけで、もともと人はいない。「君と話していると、楽しい」


「溜息を吐いたあとに言う台詞じゃないね」


「嘘。全然楽しくない」


「どっち?」


「半々くらい?」


「あそう。それはいいね。都合に合わせて、どちらか選べるわけだから」


「暫くのんびりしたいなあ……」


「のんびりって……、君、あそこでも、そんなに働いていたわけじゃないじゃないか」


「そうだけどさあ……。なんか、もう、疲れちゃった」


「疲れてばっかりだね」


「移動するだけで疲れる」


「それは僕も同じだよ」僕は話す。「しなくてもいいんだったら、もう二度と移動なんてしたくない。ずっと家の椅子に座っていたい」


「それじゃあつまらないよ。適度に動かないと」


「結局、疲れるために動くようなものじゃないか。疲れたくないのか、疲れたいのか、どっちなの?」


「どっちも」


「我儘だね……」


「そうだよ……。もうさ、そんなこと、分かっているでしょう?」


「大いに」


 何もすることがなかったから、携帯端末でニュースを閲覧した。少し気になって、ハイリに関する事項を検索してみたが、見つかったのは以前友人に教えてもらった情報だけで、何も新しいことは見つからなかった。予言書の在り処についても不明のままだ。


 ブラウザーを終了させて、端末内に保存されたフォルダーを開く。


 一つのテキストファイルが現れた。


 それは、ヘブンズを記述する言語を解析し、プログラミング言語から英語に翻訳したものだ。


 もともとは、ベーシックと呼ばれる特殊な言語で記述されていた。


 それをリィルが解析してくれた。


 ファイルに書かれている内容を見たかったが、車内で開くことはしなかった。誰かに見られるような事態は極力避けたい。

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