第13話

「さて、じゃあ、やってみようかな……」僕はデバイスを操作しながら呟く。


 リィルが僕の対面に座り、脚を組んでこちらを見た。


「……なんか、変な人ばかり」彼女は話す。


「サラのこと?」


「あの人も、サブリーダーの彼も」


「そうかな。普通の人に見えたけど」僕はタイピングを始める。


「うん……。なんか、人という感じがしない」


「自分の方が人間に近いって?」


「そこまでは言わないけど……。うーん、でも、あれが一般的なのかな」


「たぶんね」


 僕が使っているデバイスは、キーボードとディスプレイが搭載された、いたって基本的なラップトップだ。ただし、翻訳をよりスムーズに行うために、キーボードにはちょっとしたカスタマイズが施されている。一つの言語しか使わないわけではないため、色々な言語に対応できるように配慮されており、キーの配置を使用する言語によって変更できる仕組みになっている。といっても、それほど頻繁に配置を変えることはない。自分の専門ではプログラミング言語を使うことが多いから、普段はそれに特化した配置になっている。今回も配置を変える必要はなさそうだった。


 サラから受け取ったメモリーをデバイスに差し込んで、テキストの中身を確認する。学術的な文書だった。英語で書かれているが、難解なものではない。どちらかというと、学術的な文章は、物語形式のものよりは翻訳がしやすい。論理的な文章はルールから逸脱しない。


 デバイスはすでにクラウドに接続されている。僕個人に割り当てられた容量は、必要がないくらい多かった。それが全部埋まるまで仕事をしろということか。


 慣れない作業ではなかったので、作業は滞りなく進行した。サラに教えてもらった補助ツールに関しては、今のところ使う必要はなさそうだった。種類が豊富すぎて、どれを使ったら良いのか分からない。シンプルに進めていくのが最も効率が良いと判断した。


 二時間半くらい続けて作業を行い、気づくと昼時になっていた。


「まあ、順調かな……」


 お茶を飲みながら僕は言った。このお茶は、作業の途中でテーブルから出現したものだ。テーブルに入るスリットは、その上に置かれている物の状況に合わせて位置と大きさが調整されるようで、お茶はデバイスの邪魔にならない位置に現れた。


「私の出番はなさそうだね」対面に座るリィルが話す。「つまらないけど、楽だから、まあ、いいか」


「気楽だね」


「うん、気楽」


 僕はソファから立ち上がり、軽く伸びをする。


「ちょっと、外に行ってくるよ。ロトに会ってくる。このまま、お昼ご飯が二人分運ばれてきたら、大変だから」


 僕がそう言うと、リィルも立ち上がった。


「私も行く」


 僕は了承した。


 部屋の外に出ても、廊下には誰もいなかった。静まり返っている。この一帯は海の底にあるわけだが、水の気配は感じられない。右にも左にもずっと灰色の廊下が延びているが、どちらの先にも終わりは見えなかった。ロビーに続く階段は左手にあるので、僕とリィルはそちらに向かって進む。


「どのくらいで終わりそう?」歩きながらリィルが質問した。


「うーん、そうね……。与えられたテキストは、今日中にはなんとかなりそうかな」


「え、そんなに?」


「思ったよりも簡単なものだったから……。……もしかすると、試されているのかもしれない。今やっているのは、肩慣らしみたいなものなんだろうね、きっと……」


「私さ、あとで、遊びに行ってもいい?」


「どこに?」


「海に」


「それって、勤務時間中にってこと?」


「そうだよ」


「駄目に決まっているじゃないか」僕は笑う。「仕事を何だと思っているの?」


「時間を無駄にする許しがたい所業」


 面白かったので、僕はさらに笑った。


「とりあえず、僕の傍にはいてほしい。終わったら、一緒に行こう」


「了解」


 前方に階段が見えてくる。僕たちが近づくと、階段の付近が明るくなった。廊下の照明はずっと灯っているが、ここだけは回路が異なるらしい。


 ロトに案内されて、昨日通ったときにも感じたことだが、この階段はかなり長い。丘の上から海の底まで繋がっているのだから、長いのは当然だが、ほかにもっと良い設備が作れたのではないか、と思う。わざわざ人間の足を使って上り下りをさせる意味が分からない。エレベーターなど、もっと便利な手段があるはずだ。


 長い階段を上りきって、ロビーに辿り着く。やはり、そこにも人の気配はなかった。


「予め、内線で伝えておくべきだったかな……」


 周囲を見渡しながら、僕は誰にともなく呟く。


 誰の応答もない。


 僕は隣を見る。


「どこにいると思う?」


「さあ……」リィルは首を傾げた。「地球上のどこかにはいると思うけど……」


「案外、火星に住んでいたりしてね」


 数秒遅れて、リィルは吹き出した。


「彼が?」彼女は尋ねる。


「そうそう」僕は二度頷いた。「フォーマルな格好で、火星で一人なんだ」

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